2006-01-01から1年間の記事一覧

(74)雪月花は戦いには不向き

阪本信子 会員 源平の合戦はある意味では東と西の対決とも言えます。 古く日本は「西の政治」による「東の植民地的支配」が基本構造となっていましたが、この頃は「東の独立」志向が著しく、東が西を支配する歴史が始まったと私は考えます。 追討使の権威に…

◇8月例会の案内◇

日 時 8月6日(日)13時30分〜 会 場 兵庫県民会館304号室 演 題 「月明の大脱走」 参加費 会員 三百円 一般 五百円 講 師 高原 希国 先生 オーストラリアのカウラ市には捕虜収容所があり、多くの日本兵が収容されていた。 昭和19年8月5日早朝…

(73)平家は既に負け体

阪本信子 会員 東国追討使は平維盛を大将に、古色蒼然たる追討使出陣式を福原で行い、美々しく飾り立て平家物語風のサバ読み勘定では公称3万余の大軍で福原を出発しました。実数は多くて十分の一の3,000位でしょう。 しかし、全てスローモーションで福原出…

(72)戦うよりも見せるための鎧姿

阪本信子 会員 維盛の出陣の姿は、非のうちどころのない「容儀体佩絵に描くとも及び難し」の堂々たる大将軍でした。 軍勢の出陣は庶民にとってはショウのようなもので、大勢の見物の中を威風堂々、美々しい大鎧のフル装備で進む維盛の姿からは、1ケ月後の惨…

(71)本当に吉日だったの?

阪本信子 会員 京都では真否様々な噂とか情報が飛び交い、実際に各地に反平家の狼煙が上がりました。 甲斐の安田義定、木曽義仲、甲斐の武田信義など、東国一帯のみならず、筑紫、熊野、近江にも蜂起が見られ、全国的な内乱状態となりました。 兼実はここに…

(70)北風政策は失敗だった

阪本信子 会員 治承の政変以前、平家一門の知行国は17カ国であったが、政変後は32カ国に増えています。 従って、現地へ赴き徴税、課役などの実務を担当する目代も増えています。 伊豆国は源頼政の知行国で、国司は息子の仲綱であり、現地では孫の有綱がこれ…

(69)清盛の人選ミスに武士はソッポを向いた

阪本信子 会員 治承の政変以前、平家一門の知行国は17カ国でしたが、政変以後は32カ国と倍近くに増えています。 平家は特に東国に対し警戒を深め、本腰を入れだしました。 上総の場合、受領は後白河院の近臣藤原為保から、平家と姻戚関係にある藤原(伊藤)…

(68)平家の支持率は下がり続けていた

阪本信子 会員 石橋山の合戦で頼朝は敗軍の将となりました。こんな場合、軍兵たちは逃げるのが当たり前で、新規に加わるというのは常識では考えられません。ところが、本人も信じられない位、次々と味方は増え続けたのです。 そして、約1ケ月後には南関東を…

(2006/07/02)移住坂〜世界への坂道〜

◇7月例会の案内◇ 日 時 7月2日(日)13時30分〜 会 場 兵庫県民会館 304号室 演 題 移住坂〜世界への坂道〜 参加費 会員三百円 一般五百円 講 師 楠本利夫 先生 第一回ブラジル移民船・笠戸丸が、明治41年に神戸を出港、昭和3年には神戸移民収容所開設…

(2006/06/04)播磨の鬼追い

◇6月の例会のご案内 ◇ 日 時 6月4日(日)13時30分〜 会 場 兵庫県民会館 304号室 演 題 「播磨の鬼追い」 参加費 会員三百円 一般五百円 講 師 藤原喜美子 先生 兵庫県の播磨地域では、鬼追い・鬼踊り・追儺式と呼ばれる行事が行われています。 …

(67)平家の大将は能力よりもブランド重視

阪本信子 会員 頼朝挙兵の報を聞いても、京都ではそれほど重大に考えていませんでした。9月5日に頼朝追討令が発せられ、維盛を大将に副将は薩摩守忠度、侍大将として藤原景清が任じられた迄はともかくとして、軍勢が福原を出発したのは17日後の9月22日、京都…

(66)決断は一か八かの博打です

阪本信子 会員 下総の千葉氏、上総の平広常らは何れも平家に遺恨を持っている大豪族ですが、彼らを帰服させたことによって関東の大勢は決したといってよいでしょう。 時を経るにつれ軍兵も増えてくると、だんだん威厳のようなものが出てきて、大政治家頼朝が…

(65)「子孫の勲功募らんと欲す」が本当の目的

阪本信子 会員 頼朝は石橋山の合戦に惨敗し、かろうじて房総半島に逃れた。応援に駆けつけた三浦義澄は丸子河に隔てられ、なす術もなく引き上げた。ところが由比ガ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇してしまったのです。 畠山重忠は三浦氏とは親戚ですが、こ…

(64)初めは処女の如き頼朝

阪本信子 会員 挙兵当初、頼朝は気配り人間そのもので、一人一人の手をとって「頼りにするのはお前だけ」と口説き「いんぎんの芳志」で協力を得ています。しかし、吾妻鑑には「真実の密事は北条殿の他、これを知る人なし」と書かれ、無邪気な東国武士の善意…

(63)やっぱり、ついていた頼朝

阪本信子 会員 石橋山の合戦で惨敗し、頼朝は命からがら安房へ逃れました。 これより数日頼朝の行方は杳として知れず、挙兵は失敗したかのように見えた。しかし、ものは考えようで、彼にとって三浦の援軍を阻んだ暴風雨が、逃げるのを助けたともいえます。 …

(62)天は平家に味方したか?

阪本信子 会員 石橋山に頼朝軍が宿営した夜は暴風雨の荒れ狂う悪天候でした。 頼りの三浦勢は海路を取るべき所、悪天候のため陸路をとり、酒匂川まで到着した。 しかし、折からの雨で増水し、渡ることが出来ず目の前に頼朝勢を見ながら、心は逸れどもどうに…

(61)敗因は明確、石橋山の合戦

阪本信子 会員 頼朝は18日に山木攻めで勝利すると、休む暇もなく20日には出陣しています。 準備も整わないのに何故こんなに急いだのでしょうか。 実はまだまだ相模や武蔵には平家の息のかかった者が多く、同じ伊豆に大勢力を張る伊東祐親は仇敵の間柄で仲も…

(2006/05/14) 生野銀山の歴史を訪ねる旅

■1200年の歴史をもつ生野の銀は、信長、秀吉、家康の三大英傑をも魅了した。 主催 兵庫歴史研究会 探訪地 生野銀山とその周辺 探訪日 平成18年5月14日(日)、雨天決行 集合場所 JR三ノ宮駅東300m 観光バス発着所 集合時間 午前8時15分集合、8時3…

(60)後味の悪い山木攻め

阪本信子 会員 山木兼隆は頼朝と同じく流罪になってこの地に流されていたのですが、知行国主源頼政が以仁王の変で討死すると、代わって平時忠が知行国主になり、山木は目代に任じられましたが、たった3ケ月の目代暮らしで気の毒にも殺される羽目になりまし…

(59)「奇貨おくべし」

阪本信子 会員 『吾妻鑑』は以仁王の挙兵に始まる鎌倉幕府の歴史を綴ったものです。従って鎌倉幕府の大本営発表的な性格もあり、100%真実を伝えるものではないが、平家物語に欠落した源氏サイドからの視点が読み取れます。 北条時政は当時、大豪族どころか…

(58)旗印は素寒貧の頼朝

阪本信子 会員 頼朝挙兵は治承4年(1180)8月18日ですが、都にこの知らせが届いたのは9月2日で、半月経っています。 これからみてもそれほどの重大事件とは誰も思っていなかった事がわかります。 早馬ならば10日足らずで十分到着します。 兼実は将門の乱を想…

(57)平家の血脈は文覚が少し伸ばした

阪本信子 会員 『平家物語』で頼朝は挙兵するなら院宣が必要だと粘りました。文覚はたった8日間で京都と伊豆を往復して、頼朝に後白河法皇の平家討伐の院宣をもたらしたという超人的なお話になっていますが、私は「少々やりすぎじゃないの」と興ざめしていま…

(2006/04/02)DNAは歴史を語る―その4

◇4月の例会のご案内 ◇ 日 時 4月2日(日)13時30分〜 会 場 兵庫県民会館 304号室 演 題 「DNAは歴史を語る―その4」(天皇家の万世一系はいつまで成り立つか) 参加費 会員三百円 一般五百円 講師 柴谷武爾 (兵庫歴史研究会会員) 昨今、皇室典範…

(56)文覚上人は非行少年だった

阪本信子 会員 平家物語の中の文覚に関する話は、はっきりいって実に興ざめなもので、文覚の異常性格ばかりが目につきます。 本当にそうであったかもしれません。彼の奇矯、偏屈、目的遂行のためならば猪突猛進で、相手かまわず非常識であろうが何でもやる性…

(55)インチキ煽動家、文覚上人

阪本信子 会員 平家物語の中で頼朝の挙兵を決心させたのは高尾の荒聖、文覚上人ということになっていて、平家作者はしつこく四章に亙って文覚の話にページをさいている。 頼朝を説得する文覚の言葉を綴る平家物語の文章は創作でしょうが、本筋については百パ…

(54)窮鼠、頼朝の挙兵

阪本信子 会員 清盛が福原都造営に専念している最中に起ったのが頼朝、義仲の挙兵でした。 以仁王の変は呆気なく終わりましたが、平家は以仁王の令旨の配られた先のチェックを始めました。 伊豆に流されていた頼朝のところへ京都の情報源としている乳母の子…

(2006/03/05)邪馬台国の地理のはなし

◇3月の例会のご案内 ◇ 日 時 3月5日(日)13時30分〜 会 場 兵庫県民会館 304号室 演 題 「邪馬台国の地理のはなし」 参加費 会員三百円 一般五百円 講師 小合彬生 (兵庫歴研会員) 邪馬台国や、ひみこの宮はどこ。そろそろ決まってもいい頃と思い…

(53)想定外の結果

阪本信子 会員 大混乱の内に強行された福原遷都は『方丈記』にも書かれ、貴族たちも庶民も本当にここが都になるのだろうかと半信半疑で、日々を過ごしておりましたが、7月16日「福原を暫くの皇居として路を開き、宅地を人々に賜わるべし」の詔勅がでて、本格…

(52)一人相撲の福原遷都

阪本信子 会員 6月2日午前6時、天皇、中宮、皇太子の一行は京を出発。 天皇行幸となれば行列一つにしてもややこしい手続き、慣例風習があるのですが、この場合は急なことで不備な点も多々あり、この事も貴族たちの神経を逆撫でするものでした。 そんな不満た…

(51)福原へは遷都?行幸?

阪本信子 会員 6月27日、以仁王の変に加担した寺社の処罰についての公卿会議が開かれ、公卿たちの反対で徹底的処罰は出来ませんでした。これによって法皇、反平家貴族、寺社間の連携は温存され、反平家連合が再び結成される可能性ありと考えた清盛は、その5…