(63)やっぱり、ついていた頼朝

                                     阪本信子 会員
 石橋山の合戦で惨敗し、頼朝は命からがら安房へ逃れました。
 これより数日頼朝の行方は杳として知れず、挙兵は失敗したかのように見えた。しかし、ものは考えようで、彼にとって三浦の援軍を阻んだ暴風雨が、逃げるのを助けたともいえます。
 大軍による闇夜の奇襲は同士討ちの危険性が高く、暴風雨に紛れて頼朝は6人の家来に守られて、真鶴岬から船で安房国安西氏を頼って上陸しています。
 山木攻めの報は約半月後の九月三日に都に到着していますが、これはその時代の伝達スピードからみてもちょっと遅すぎます。都だけでなく、現地においてもこの挙兵に警戒感を抱いていなかったことがわかります。
 泰平に馴れた都の貴族、平家すらこれが平家滅亡を知らせる警鐘であったとは思いもよらなかったのです。
 「玉葉」には頼朝を「将門の如し」と書いているが、250年前の将門の乱の時のように、遠い辺地での戦いで、何れ平家が片づけてくれるだろうから、自分達には全く関わりのないことと楽観していたのかもしれません。
 次いで石橋山の合戦の報が都にもたらされ、都は大勝利にわき、頼朝行方不明に大喜びしました。
 しかし、次に彼らの耳にきこえてきたのは、堂々三万騎の大軍を従え鎌倉入りした武士の棟梁源頼朝で、まさしくマジックです。   (つづく)