(183) 公武合体政権は可能だった

                         阪本信子 会員
 平家は軍事貴族ともよばれ、貴族たちからは異端視されていますが、元を辿れば皇族であり、何代か前には貴族であったはずです。
 保元の乱平治の乱においてはお飾りであったとはいえ、名目的には藤原頼長藤原信頼ら貴族が大将として戦っています。
 つまり必要に応じて貴族の武士化がみられ、公武合体政権というのは、それほど不自然なものではなかったのです。
 ただ朝廷の上から下まで、特に中枢は貴族に独占されていて、武士が入りにくかっただけの事で、貴族たちの武士への反発は既得権益を侵害されるかもしれないと恐れたからです。
 武士は人殺しを生業とする忌むべき者という、仏教的大義名分の口実を設けて、彼らは貴族社会への仲間入りを容易に許しませんでしたが、それも自分の手を汚すのが嫌で、武士に命じてやらせたものです。
 頼朝は東国の田舎に政権を樹立し、京都政権と真っ向から対決することはしなかったが、清盛は京都にあって真正面から後白河法皇院政を否定し、政治改革に取り組みました。
 これは見方によると貴族社会に取り込まれて、ミイラとりがミイラになり、平家が貴族化したと見られなくもありません。
 残念ながら平家は頼朝と違って、政府の武力担当専任として、公的な命令によって兵力動員が可能であったのが裏目に出ています。
 つまり、平家の武力は国家権力に依存しているということで、積極的家人対策に欠けていた。
 また、清盛を除いた一門の危機感の欠如と相俟って奢る平家といわれても仕方がないでしょう。 (つづく)