(184)  近代にも通用する古典的犯罪

                         阪本信子 会員
 井原西鶴の「日本永代蔵」にこういう話があります。
 越前に住む利助は才覚の利く男で、お茶の担ぎ売りをするのにも工夫を凝らし、「えびすの朝茶」と触れ歩くと、縁起がよいと喉の渇かぬ人までも普通なら一服2〜3文のところ、12文も払って買ってくれたので、ほどなく大勢の手代を抱える葉茶の大問屋となった。
 嫁も貰わずかね銀がたまるのだけを楽しみに年月を送っていたが、もっと儲けたいと悪心をおこし、越中、越後に手代を遣わし、捨てられる茶殻を集め、京の染物に使うと称し、売り物の葉茶にこれを混ぜて売ったので、面白いほど儲かった。
 同じく昨今問題になっている、食用にならない米を食用米と偽り、良い米に混ぜて売るとか、外国の安い肉を国産と偽って売るなど、いずれも簡単、単純で何ら高等技術も思索も要しない、シンプルな騙しの金儲け手法です。
 元禄時代と現代が違うのは、天がこれを咎めたのか、利助は急に気がおかしくなり、自らこの悪事を国に触れまわり「茶殻茶殻」としゃべり散らしたので、信用もなくなり、人付き合いも絶え、医者を呼んでも来てくれない、結局狂い死にしたということになっています。
 現代において、これが表沙汰になった場合、その責任は直接実行犯である企業の負う所であり、その存続は難しくなるという結果になっていますが、暗黙のうちにそれを予想しながら許してきた官公庁の責任がうやむやになっているというのは何とも不思議な国です。
 しかし、所詮身の丈にあった官僚、政治家しか育てられないのですから、国民にも責任ありと天が問うているのではないかと、私は今日の不穏な世相を見て感じております。 (つづく)