(64)初めは処女の如き頼朝

                                     阪本信子 会員
 挙兵当初、頼朝は気配り人間そのもので、一人一人の手をとって「頼りにするのはお前だけ」と口説き「いんぎんの芳志」で協力を得ています。しかし、吾妻鑑には「真実の密事は北条殿の他、これを知る人なし」と書かれ、無邪気な東国武士の善意と勇気を熟知してのことで、ダテに十年近くの流人生活をやっていたわけではなく、苦労人の頼朝です。
 だからイニシャティブは彼でなく周囲の有力武士たちがとり、頼朝の顔は常に彼らに向けられており、石橋山では心細げな様子を土肥実平に見せています。
 この頃は梶原景時を含めて相模、武蔵の武士の大半は平家方で、頼朝の使者をもっての協力依頼を無視する所か、鼻にもひっかけないような態度を取る者もいました。
 それが石橋山の合戦の約1カ月後には二万の軍勢を率いて駆けつけた平広常に礼を言う所か、遅参を責めるという大芝居をやって心服させているのですから、ここに頼朝の成長を見ることができる。
 2ケ月後には殆どが頼朝に帰服したが、これは運の良さに併せて、歴史の大変革期の流れにタイミングよく棹さした頼朝の資質、才能を評価する所です。
 そして、その流れを作った平家の拙いやり方には、いかに武家政権への過渡期で仕方がなかったとはいえ、限界を感じます。
 関東武士の生活は義朝の時代に比べれば向上している筈ですが、特に治承の政変以後、この地方には平家サイドの知行国主、国司目代が増加し、対立は深まっていたのです。
 平家一門を配置し、関東支配は一見磐石の如きに見えながら、実態は平家にとって最も弱い部分となっていたと言えます。そこに源氏の嫡流が流されていたのですから、役者も舞台も整っていたのです。 (つづく)