(65)「子孫の勲功募らんと欲す」が本当の目的

                                  阪本信子 会員

 頼朝は石橋山の合戦に惨敗し、かろうじて房総半島に逃れた。応援に駆けつけた三浦義澄は丸子河に隔てられ、なす術もなく引き上げた。ところが由比ガ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇してしまったのです。
 畠山重忠は三浦氏とは親戚ですが、この時は敵味方でした。両者は本気で戦う気がなく、にらみ合っていましたが、近くの三浦方の杉本城の者が勘違いして畠山勢に攻めかかり、畠山軍は大勢の死傷者を出して退いた。
 ところが畠山重忠由比ガ浜の恥じを雪ごうと、翌8月26日に三浦氏の本拠衣笠城に河越、江戸氏と共に押し寄せました。
 この時、三浦義澄の父義明は89歳の高齢ながら皆を逃し、城と運命を共にしました。
 彼の最後の言葉は当時の武士気質をよく表しています。
 「老命を武衛に投じ、子孫の勲功を募らんと欲す」(私の命は頼朝公に捧げるが、子孫にその恩賞を頂きたい)つまり頼朝の旗上げに応じたのは、単なる旧恩とか血のつながり、大義名分など感情的、抽象的なものでなく、実利を目的とし、子孫の繁栄の為と言っています。
 武士たちは平家の世の中になると、中央重視でサービスばかり強要され、見返りのない搾取が嫌になったのです。(尤もこの体制は義朝時代から変わっていないが、不公平感がそれを増幅させたのでしょう)。
 頼朝なら give and take(奉公に対しご恩を頂く)という武士の利益を守る社会にしてくれるだろうという期待をもって与力したのです。イデオロギーより実益が大事なのは今でも同じです。                   (つづく)