(74)雪月花は戦いには不向き

                              阪本信子 会員

 源平の合戦はある意味では東と西の対決とも言えます。
 古く日本は「西の政治」による「東の植民地的支配」が基本構造となっていましたが、この頃は「東の独立」志向が著しく、東が西を支配する歴史が始まったと私は考えます。
 追討使の権威によって軍兵、兵糧の調達は簡単と思っていた平家にとって、その不調は士気を沈滞させるものでしたが、もう一つがっかりさせたのが「平家物語」にある斉藤実盛の言葉です。しかし、彼は実際に富士川へは行っていません。
 途中で戦線離脱して京都へ向っていたのですが、平家作者はそこにいなかった彼を登場させています。これは後の章に書かれている「髪を染めて義仲との戦いに臨んだ」という有名なエピソードの主人公としての伏線であり、富士川の敗戦の理由を語らせるという意味があったのです。
 維盛が実盛に「お前ほどの強弓を引く者は源氏方には何人いるか」と尋ねると、「自分など強弓の部類には入りません」と軽く流し、東国では馬に乗るのは日常茶飯事で戦闘技術は遥かに源氏が優れていると語ります。
 そして、何よりも異なっているのはメンタル面で、西では親が死ぬと供養をし、子が死ぬと歎き戦いをやめ、兵糧がなくなれば田植えをして収穫を待って戦いを開始する。夏は暑い、冬は寒いと戦うことを厭う。それにくらべ、東では親が死のうと、子が死のうとそれを乗り越えて戦う。
 これは東と西の比較と見えますが、平家的なものと源氏的なものが類型化され、整理集約されています。
 ハングリー精神が勝つエネルギーになっていたのです。  (つづく)