(75)撤退は前進よりも難しい

                              阪本信子 会員

 斉藤実盛は後づめでなく先手の中にいながら、平家の敗戦確実を悟り戦線離脱して京都へ引き返しているように、平家軍に加わった兵士たちは、恐らく次第に負け戦確実の気持になってゆき、グループで逃亡する者も日を追って増えてゆきました。しかし、平家の統率者にはもうそれを引き止める力はありませんでした。
 頼朝方から10月24日に「富士山麓浮島ガ原にて」という矢合わせ、つまり宣戦布告状が届けられてきました。
 この使者は捉えたり、勿論殺してはならないという不文律がありましたが、平家方の藤原忠清は逆賊にこのルールは適用せずと、これを斬っています。士気の沈滞を鼓舞しようとしたのかも知れませんが、中山忠親は「山槐記」でこれに対し非難を表しています。
 戦いを前にして源平両軍は富士川沿岸に布陣しました。
 源氏の軍勢は平家の3倍です。平家方は馬も人も長い行軍で心身ともに疲れ、旱魃による食料の調達不良、強制的に動員された兵士も多く、平家のために命をかけようというのは平家家人位で戦意の欠如は明らかで、その上軍紀不在でだらけきっている。そんな彼らがびくびくしながら源氏方を見ると、近辺の民百姓が野山に逃れ、その焚く火が全て源氏の軍勢に見えるのです。
 忠清はどうみても勝ち目がないと判断し、撤退命令を下しました。宣戦布告状を突きつけられながら、敵に後を見せるのは格好の悪いことですが、これしかなかったでしょう。
 しかし、撤退は前進よりも難しいもので、こんな時に何かあったらパニックになるのは必定で、鳥の羽音どころか、桶が転がっても混乱状態になったでしょうね。     (つづく)