◇7月例会の報告◇

移住坂 ―世界への坂道―
講師 芦屋大学コミュニケーション科教授 
楠本利夫 先生
http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20060704



 移民というとドミニカ移民訴訟に見られるように、暗い、悲惨なイメージがあります。中には成功者もいましたが、それはほんの僅かで、楽園を夢みて出航した彼らを待っていたのは、耕作不能に近い荒地と奴隷同然の苛酷な労働でした。
先ず市役所の地下から発見された貴重なビデオフイルムの上映からはじまります。
 撮影の正確な日時は不明ですが、恐らく昭和30年代前半かと思われます。音声不良で聞き取りにくかったのですが、神戸移住斡旋所の10日間の記録で、プロローグとしての舞台説明の効果は十分です。
 商船三井のブラジル丸に乗船、蛍の光におくられて、五色のテープも無情に切れ、見えなくなるまで旗をふる人々、船出はいつも切ないものです。
 日本最初の組織的移民は明治元年のハワイ移民153名で、これは元年組と呼ばれています。しかし、諸々の問題が惹起され、明治41年日本政府はハワイへの新移民渡航を禁止しました。同じ年の4月28日、第1回ブラジル移民船、笠戸丸は乗客八百二人を乗せて神戸を出航し、52日の航海の後、ブラジル・サントスに入港しました。
 移住者は神戸海岸通りの移民宿と呼ばれる宿泊所で出国までの日を過ごしていましたが、神戸地元の熱心な誘致運動によって、昭和3年3月、移民研修施設としての「国立神戸移民収容所」が完成しました。
以来、移民収容所は海外移住基地として機能し、昭和46年の最後の移民船出航で幕を下ろしました。
 その間に「神戸移住教育所」「神戸移住あっせん所」「神戸移住センター」と名を変えながら、現在も当時の姿をそのままに移民、戦災、震災の歴史を経て立っています。石川達三はここから「ラプラタ丸」でブラジルへ渡り、体験に基づいた『蒼氓』で第1回芥川賞を受賞しました。
 現在芦屋大学教育学部教授として活躍されている楠本先生は、日本人の国際展開へのパイオニアとしての功績を正しく評価し、移民事業を風化させてはならないと顕彰活動の推進に力を注いでいらっしゃいます。
 神戸は海外移住者にとってその4割を送り出した心の故郷であり、『海外移住者顕彰事業』として「移民乗船記念碑」の設置、「移住坂」の整備、「国立海日系人会館」の三点が計画されました。
 これによって移住者への偏見と誤解が解消され、新資料発見のきっかけとなって、実際にビデオ、写真など貴重な発見がみられました。
 「記念碑」はブラジル日系人団体からの陳情によって、平成13年に「希望の船出」の碑銘をもってメリケンパークにたてられ、乗船地へ向う「赤土の坂道」は「移住坂」として整備されています。残るは「旧移住センター」を「国立海日系人会館」として世界中の日系人の拠点とする事です。
 先生のお話は顕彰活動がメインであるのは勿論ですが、その他の裏話、雑談には笑いあり、怒りもそして哀しみも感じます。
 ブラジルの記者がみた日本人は清潔で、識字率も高く、他の国の移民とは違っていたとか、終戦時のブラジル日系人の「勝ち組」と「負け組」の抗争の話、小野田少尉、九軍神の一人で捕虜第1号の酒巻少尉、パスポートお笑いエピソードなど次から次へ湧いてでます。1時間半の予定時間が15分オーバーして終わりました。移民の歴史は真っ黒と思っていた私ですが、少し心が和んだような気がしております。(阪本信子)