(69)清盛の人選ミスに武士はソッポを向いた

                              阪本信子 会員
 治承の政変以前、平家一門の知行国は17カ国でしたが、政変以後は32カ国と倍近くに増えています。
 平家は特に東国に対し警戒を深め、本腰を入れだしました。
 上総の場合、受領は後白河院の近臣藤原為保から、平家と姻戚関係にある藤原(伊藤)忠清に代わった。この上総の国は以前より平広常が上総権介を世襲し、実質的には上総介並みの権力をもってまとめていました。
 広常は治承の政変で院の近臣として近衛少将を解任された平時忠の子時家を預かっていたが、彼を娘婿としたのは、切り札として何らかの野心があったと思われます。
 新受領藤原忠清は坂東八カ国の侍奉行にも任じられていて、関東武士団を平家に従属させ、組織化することに努力していました。ところが、上総は他の国では大小武士団が乱立しているのと違い、広常が纏めており、忠清は扱いやすい上総に先ず目をつけました。
 忠清のやり方は讒言によって上総権介のポストをとりあげようというやり方で、この為どちらかと言えば日和見、中立的であった広常を反平家にしてしまいました。当然、広常のみならず、近隣の武士たちとの対立も深める結果となります。
 忠清にすれば、上総を支配するには広常の官職、肩書きを剥奪して力を弱めれば、取って代われると思っていました。
 しかし、広常が二万の軍勢をもって頼朝の傘下に入ったことで、頼朝の関東制圧は一気に加速したのです。
 忠清でなく実際に現地で武士団を統率している広常を任じていたらこんな事にはならなかったでしょうに、清盛の人選ミスです。
(つづく)