(68)平家の支持率は下がり続けていた

                                  阪本信子 会員

 石橋山の合戦で頼朝は敗軍の将となりました。こんな場合、軍兵たちは逃げるのが当たり前で、新規に加わるというのは常識では考えられません。ところが、本人も信じられない位、次々と味方は増え続けたのです。
 そして、約1ケ月後には南関東を掌握します。
 原因はいろいろありますが、平家がわが世の春を謳歌していた過去20年余の間に下地は作られ、治承の政変が引き金になったという事が考えられます。平家がうつつをぬかしていた繁栄の裏側では、刻々と滅亡の因子が育てられていたのです。これは平家だけに限定されることでなく諸行無常、盛者必衰の自然の理というものです。
 関東の武士たちは平治の乱に勝利した平家に大いなる期待を持っていました。確かに生活は以前より向上していますが、時間が経つと時を得た者もいたが、そうでない者もいて不満、反感が頭をもたげてきます。
 平治の乱の後、在地領主たちの中には平家に所領を寄進するものが増えてきました。彼らの中には在庁官人、郡司、郷司など公人としての肩書きを持つものが多く、これを通じて平家は知行国主、国司がたとえ皇族であり、また院の近臣であっても実質的支配権を広げてゆきました。
 しかし、彼ら在地武士たちは心から平家に臣従しているわけではなく、平家との主従関係も損得によるもので、家の子郎党的、精神的なつながりは少なく、情勢が変われば簡単に掌を返すものでした。
 そんな時彼らの既得利益を脅かしたのが治承の政変後の大幅な人事異動だったのです。
(つづく)