(70)北風政策は失敗だった

                              阪本信子 会員
 治承の政変以前、平家一門の知行国は17カ国であったが、政変後は32カ国に増えています。
従って、現地へ赴き徴税、課役などの実務を担当する目代も増えています。
 伊豆国源頼政知行国で、国司は息子の仲綱であり、現地では孫の有綱がこれに当たっていました。
 しかし、以仁王の変以後、知行国主は平時忠国司は時忠の猶子時康、目代山木兼隆の前には伊東祐親が任じられていた。相模も知行国主、国司が交代しており、従来の在庁官人三浦、中村氏に代わり平家の有力家人である大庭景親が力を増してきた事は容易に考えられます。
 しかも以仁王の残党チェックという名目で、何かにつけて弾圧、圧迫するのですから、この時被害を受けたものは全て頼朝方につくようになっています。
 このように実際に兵員の動員能力のある在地豪族と、中央からやってきた平家サイドの役人との対立は日々激化していったのです。
 はっきり言ってこの頃の平家には何一つ支持率を上げるものは無く、政策の拙さが目立ちます。
 これも情報不足、もしくは情報を手に入れても、その分析能力の欠如で、正確に状況を把握できなかったのは、矢張り20年間の泰平のなせるものです。
 唯一、武力で抑えるというのが有効だったのですが、富士川の合戦の惨敗はそれすら無に帰した結果となりました。
 平家に音を立てて凋落の足音が聞こえてきました。(つづく)