(71)本当に吉日だったの?

                              阪本信子 会員
 京都では真否様々な噂とか情報が飛び交い、実際に各地に反平家の狼煙が上がりました。
 甲斐の安田義定木曽義仲、甲斐の武田信義など、東国一帯のみならず、筑紫、熊野、近江にも蜂起が見られ、全国的な内乱状態となりました。
 兼実はここに至り「武力で世を治めねばならなくなった」と認めているが、「権勢の人(清盛)遷都の事により人望を失う」と書き、貴族たちにとって遠い東国のことより、目下の関心はひたすら遷都の事で、遷都が清盛に与えたダメージの大きさを示している。
 9月9日、追討人事が決定したが京都を出発したのは9月29日で、これは準備、特に兵員が十分集まらなかったせいもありますが、出陣の日の吉凶を占い、吉日を選んで出陣したのも遅れた原因の一つです。
 しかも福原出発の時のみならず六波羅出発の時も占っているのは貴族の日記にも書かれ、戦いを彼らはどう考えていたのか、認識を疑います。
 結果的にこの遅れは平家の重大な敗因となり、平家が安倍川に到着した時、当てにしていた武士たちは、タッチの差で頼朝勢に捕らえられていて、平家が安んじる地はなかく、吉どころか、大凶の出陣だったのです。
 折角占いによって吉日を選んで出陣したのに、この態では出兵しない方がまだマシだったかも知れません。
 頼朝の方では吉凶を無視しているのに勝っているのですから、皮肉なものです。               (つづく)