(72)戦うよりも見せるための鎧姿

                              阪本信子 会員
 維盛の出陣の姿は、非のうちどころのない「容儀体佩絵に描くとも及び難し」の堂々たる大将軍でした。
 軍勢の出陣は庶民にとってはショウのようなもので、大勢の見物の中を威風堂々、美々しい大鎧のフル装備で進む維盛の姿からは、1ケ月後の惨敗など想像できなかったでしょう。
 しかし、ハイテンションの出陣の時の姿が立派であればあるほど、負け戦で富士川から逃げ帰った時の惨めさが、より不様に映ります。
 愚管抄には「帰り上りにけるは、逃げまどひたる姿にて京に入りにけり」と呆れています。
 維盛は知る人ぞ知る美男子で、建礼門院右京大夫集によれば、後白河の五十の賀では青海波を舞ったが、「源氏物語」の紅葉賀における光源氏もかくやと評判になったほどです。
 平和な時代であれば、彼は充実した人生を全うできていたでしょう。
 また副将の忠度についても平家物語に書かれているエピソードは、全て和歌に関するお話です。
 「保元・平治の乱以後、武者の世となった」と慈円は歎いているが、そういう社会の中で武士であるはずの平家の公達が「治にいて乱を忘れ」表芸である武をなおざりにしたのは驕りとしか思われません。清盛は若者の教育を誤りました。
 しかし、一度見たらもう一度会いたくなるというイケメン維盛に会ってみたいものです。
  (つづく)