(67)平家の大将は能力よりもブランド重視
阪本信子 会員
頼朝挙兵の報を聞いても、京都ではそれほど重大に考えていませんでした。9月5日に頼朝追討令が発せられ、維盛を大将に副将は薩摩守忠度、侍大将として藤原景清が任じられた迄はともかくとして、軍勢が福原を出発したのは17日後の9月22日、京都を発したのは29日というのんびりとしたもので、手間取ったのも出発日の吉凶を占った結果というのですから、その時点で平家は負け体です。
追討使の人事もいい加減で、平家の人材不足というより、戦いを何と考えているのかを問いたい所です。
大将の維盛はたしかに重盛の嫡子でネームバリューもあり、容儀帯佩人に優れているけれど、それは戦いには何の役にも立ちません。
忠度も和歌の名人として有名かも知れませんが、これも戦闘能力を高めるものではない。
戦いの経験が豊かと言われる藤原景清にしても、関東武士の生活自体が戦闘訓練のような毎日だったのに比べると、「経験豊か」も怪しいものです。
はっきり言えば維盛、忠度何れも危険な戦場で命を落としても平家にとっては差し支えない傍流の人物であったのです。
重盛亡き後、主流は弟の宗盛に移り、維盛等の兄弟は脇へ追いやられ、今までは考えたこともなかった戦いの場へしばしば追いやられています。
吉凶、宮中儀式に平家が貴重な時間を費やしている間に、頼朝の方には続々と関東武士が集合し、膨れ上がっていたのです。(つづく)