(51)福原へは遷都?行幸?

                                     阪本信子 会員
 6月27日、以仁王の変に加担した寺社の処罰についての公卿会議が開かれ、公卿たちの反対で徹底的処罰は出来ませんでした。これによって法皇、反平家貴族、寺社間の連携は温存され、反平家連合が再び結成される可能性ありと考えた清盛は、その5日後に福原遷都を決行しました。京から離れることによって寺社対策は徹底できると考えたのです。
 この発想は後から考えると全くの筋違いで、清盛ともあろうものがこれによって諸問題が解決すると本当に思ったのかについては不思議に思います。私には老化現象からくる焦り、短気のなせる技としか考えられません。
 およそ遷都と言えば何度も会議、検討が行われ、方角、交通、費用、規模、担当官、メリット、リスクなど考えつくあらゆる事柄について、綿密な打ち合わせの後、造都の詔が出されるという手続きが必要で、時間をかけて行われるものです。
 しかし、この度は以仁王の変が鎮まって6日の後に、突然言い出したもので、前例もなく「夜逃げ遷都」「思いつき遷都」「ええ加減遷都」などといわれ、最後まで遷幸か行幸か、離宮とするか御所にするかについては小田原評定で定まりませんでした。
 『平家物語』では「福原へ行幸あるべし」と書かれ,「遷幸」の言葉はない。
 恐らく遷都と考えていたのは清盛一人だったのかもしれません。
 嗚呼、巨人清盛も老いには勝てなかったのか!(つづく)