(50)遷都は平家の疫病神となった

                                     阪本信子 会員

 とにかく清盛の福原遷都は不評でした。しかし、彼の一存で法皇から天皇、公卿まで有無を言わさず引き随えて、京都を空にしてしまったのですから良くも悪くも凄いエネルギーです。
 しかし、清盛にとって乾坤一擲の遷都も、事態をより以上悪くしたにすぎませんでした。
 11月15日、京都へ帰ることに内定し、23日に福原を出発しました。京を出たのは6月2日で、わずか5ケ月20日の首都でした。
 しかも新しい内裏は完成したばかりで、引越しをすると同時に京都への引越し準備を始めています。これら諸事を考えれば物凄い無駄で、平家の弱体化を促しています。
平家が福原に全精力を注いでいる間に、8月には頼朝、9月には木曽義仲が挙兵し、富士川の合戦で平家の無様な敗北、加えて比叡山から還都の要請があり、高倉上皇の病状悪化が重なり、流石の清盛も京都へ帰る決心をしました。
 この頃になると平家一門の中からも、やっと京へ還都の声があがっています。
 清盛が何が何でも福原にとどまり、都の造営を続けていたら、平家の滅亡はもっと早められていたでしょう。しかし、もう手遅れでした。
 平家西国落ちの時福原は焼失し、その栄華は偲ぶべきもありませんが、やはり平家を亡ぼしたのは平家自身であったと思っております。(つづく)