(49)ブレーン不足が致命傷

                                     阪本信子 会員
 重盛亡き後、清盛の独裁性がますます昂じていったのは確かで、遷都が平家の誰とも相談しないままに清盛独断で決定したという事からも判断できます。
 清盛にとって大英断だったかもしれませんが、他に方法がなかったのかと言えば、一番拙い選択であった気がします。
 平家一門の中でも、もし相談を受けていたとしても、賛成するものはいなかったでしょう。返す返す重盛の早世が惜しまれます。口に出して反対するものはなく、ずるずると遷都は決行されました。
 高倉上皇中宮、皇太子、後白河法皇を手の内に握っていれば、院宣、勅宣思いのままで、寺社対策も遠く離れたことで思い切って出来ると清盛は考えたのかもしれません。
 しかし、この一見強気に見える遷都もよく考えて見ると、京を取り巻く反勢力から逃れる為であり、わずか半年足らずで終わったというのは敗北としかいいようがありません。
 6月2日の早朝、安徳天皇を初め貴族たちの大移動がはじまりました。
 建物も整っていない福原で、何度も開かれた公卿会議の議案も、福原を都とするかどうかに終始していて、他の候補地も挙げられるという泥縄式で、これらは遷都する前に話し合うべき案件です。
 この遷都を衝動的、思いつき、夜逃げ遷都というのも無理はありません。
 嗚呼、清盛老いたり!惜しむべし、重盛の死!(つづく)