(48)愚行の遷都

                                     阪本信子 会員
 治承4年の以仁王の変は頼政及び以仁王の死をもって終わりました。しかし、それは平家討伐への種火となって燎原の火の如く燃え広がり、平家の凋落がはじまります。
 そして、清盛らしくない焦りの決断が福原遷都です。
 歴代天皇のうち遷都に無駄な費えをされた代表選手は聖武天皇ではないかと思うのですが、無駄という点では清盛の福原遷都も費用の多少は別にして、何の効果もなかったという点では無駄といえるでしょう。
 一言にして言えば都を遷したのは時宜的に大失敗でした。清盛贔屓の私でも矢張り時期尚早と思います。
 以仁王事件の事後処理を議した5月27日の公卿会議において、興福寺園城寺に対する処罰は清盛の望む結果にならず、3日後の5月30日に清盛は一方的に福原遷都を宣言しました。
 清盛は法皇南都北嶺の寺社勢力とのつながりを一番警戒していたのですが、これを機に瀬戸内海航路をメインストリートにした国土開発計画、ウオーターフロントに現状脱出の道を求めたのでしょう。
 この地を選んだというのは正解で、秀吉は大阪に、家康は江戸に何れも因循固執な京都より発展性のある地を本拠としています。
 歴史に「もし」は禁句ですが、平和で平家政権が続いていたら、福原は押しも押されぬ都として京都と肩を並べていたことでしょう。残念!(つづく)