(52)一人相撲の福原遷都

                                     阪本信子 会員

 6月2日午前6時、天皇中宮、皇太子の一行は京を出発。
 天皇行幸となれば行列一つにしてもややこしい手続き、慣例風習があるのですが、この場合は急なことで不備な点も多々あり、この事も貴族たちの神経を逆撫でするものでした。
 そんな不満たらたらの気持ちなのですから、この時点で本気でこの地を都にしようなど、清盛を除いて誰も考えていなかったでしょう。清盛一人が張り切って、周りから浮き上がっている、そんな風景を想像してしまいます。
 『平家物語』では福原行幸にあたり貴族たちは「我も我もと供奉せらる」と大勢が付き従ったように書かれていますが、実際には宿所の「あて」がないとの理由で、平家シンパと見られている者5、6名のみが随っています。
 摂政基通さえも京に残っています。
 後白河法皇については、今まで幽閉していた筈なのに、何故か情報は筒抜けで、この際平家の監視の目の届く所へ移そうと、福原へ同行しています。
 政治とは宮中行事と同義語で、都の資格の一つは宮中行事を行うことが出来るということなのですが、福原にはそれを行う施設もなく、当分はもとの京の施設を使用したため、貴族たちは京と福原の間を1泊2日の時間をかけて何度も往復するという有様です。今なら快速電車であっと言う間ですが、あの時代どんなに億劫だったか。 
 「帰心矢のごとき日々」は総意であり、これが半年後の還都への原動力になったのは確かです。
 しかし、宮中行事が出来なければやめとけばよかったのに、とは現代人の言い草かもしれません。(つづく)