(53)想定外の結果

                                     阪本信子 会員

 大混乱の内に強行された福原遷都は『方丈記』にも書かれ、貴族たちも庶民も本当にここが都になるのだろうかと半信半疑で、日々を過ごしておりましたが、7月16日「福原を暫くの皇居として路を開き、宅地を人々に賜わるべし」の詔勅がでて、本格的に引越しが始まりました。
 京の家を取り壊して福原に移すという方法がとられていますが、製材用の鋸もなかったのですから、その労力、経費は膨大なものだったでしょう。
 10月末頃から貴族の邸が少しずつ整備されてゆき、11月13 日には新しく完成した内裏へ天皇が入られ、一段落したかに見えましたが、驚いたことにその2日あとの15日に前の都に帰るという「還都」の詔勅が出されたのです。 
 8日後の23日には福原出発。正味5ケ月と20日の短い都でした。そして同じような引越し騒動が繰り返されました。
 京都の家を壊して福原へ移築した途端に、またそれを壊して船に乗せ、元の地へ建て直すのです。
 例えば昨今の耐震構造不備物件の建て直しを考えてください。現代建築機械の発達をもってしても、気の遠くなるようなしんどい話で、これに費やす費用もそうですが、心理的負担も並大抵のものではないでしょう。
 福原遷都の「国の費え」は天文学的数字にのぼり、「民のわずらい」は殆ど強制労働で、税金は上がるという犠牲が払われながら、貴族たちは京と福原の間をウロウロしただけで、朝廷政治はお留守、得たところは皆無で平家の凋落を早めたに過ぎない遷都だったのです。
 誰でも予測できた失敗を清盛は想定できなかったのでしょうか。(つづく)