(61)敗因は明確、石橋山の合戦
阪本信子 会員
頼朝は18日に山木攻めで勝利すると、休む暇もなく20日には出陣しています。
準備も整わないのに何故こんなに急いだのでしょうか。
実はまだまだ相模や武蔵には平家の息のかかった者が多く、同じ伊豆に大勢力を張る伊東祐親は仇敵の間柄で仲も悪く、隣国駿河は長年平家の知行地で、恐らく目代は多数の軍兵を集めて攻めてくるに違いない。
つまり、小豪族北条氏にとって、四方全て敵だったといっても過言ではなかったのです。
幸いなことに相模の三浦氏は味方を申し出てくれました。
敵から攻められる先にこちらから出向いて、途中で三浦勢と合流した方がよいと判断しました。
果たして北条荘を出発した直後、伊東祐親は300騎をもって後を追ってきました。
そして23日夜、石橋山に宿営します。俗にいう石橋山は単なる小高い丘で、陣地としては相応しいところではありません。では何故この地に宿営したかといえば、単に前へ進めなかったからです。
前には平家方の大庭景親や渋谷重国らが3000騎で立ちはだかり、左手には深く険しい山々が連なり、右手は急な崖が海に迫り、後には伊東祐親の300騎です。これでは袋の鼠、前門の虎、後門の狼の絶体絶命の頼朝です。 (つづく)