(58)旗印は素寒貧の頼朝

                                     阪本信子 会員
 頼朝挙兵は治承4年(1180)8月18日ですが、都にこの知らせが届いたのは9月2日で、半月経っています。
 これからみてもそれほどの重大事件とは誰も思っていなかった事がわかります。
早馬ならば10日足らずで十分到着します。
 兼実は将門の乱を想定しており、誰かが直ぐに平定してくれるだろうと、遠い坂東の地の戦火は何ら危機感も警戒心も抱かせるものではありませんでした。
 坂東の地は中小武士団が乱立し、夫々牽制しあい、独自に行動し、小競り合いの絶えない、ややこしい勢力関係でした。
 頼朝が兵を挙げたとき、全てが味方したわけではありませんでしたが、後に殆ど平家を見限ったのは平家の地方政策の拙さからです。
 平家は次々と東国において知行国主となり、国司目代は勿論平家の手のもので、彼らは過酷な徴税、課役によって得たものをせっせと中央に送りました。
 しかし、この頃の地方武士が望んだのは、朝廷に代わって所領を安堵し、争いを公平に調停してくれる機関組織でした。
 在地領主の中には新田や佐竹、足利、志田のように源氏の血を継ぐ者はいますが、彼らは全て何らかの紛争の当事者であり、彼らの下につく気はない。そこで流人ではあるが、由緒正しい血統にして、一尺の土地も一兵も持たず、従って従来の紛争に何の関わりも持っていなかった頼朝を選んだのです。
 何も持たないというのが良かったとは、これも塞翁が馬です。(つづく)