(60)後味の悪い山木攻め

                                     阪本信子 会員
 山木兼隆は頼朝と同じく流罪になってこの地に流されていたのですが、知行国源頼政以仁王の変で討死すると、代わって平時忠知行国主になり、山木は目代に任じられましたが、たった3ケ月の目代暮らしで気の毒にも殺される羽目になりました。
 しかし、頼朝の山木攻めは暗殺に近い奇襲、夜討ちであり、合戦といえる格好の良いものではありません。この時の勝利は頼朝にとって寝覚めの悪い、後味のすっきりしないものだったらしく、後に山木兼隆の霊を慰めるために兼隆大明神を建立しています。
 お粗末な戦いでしたが、とにかく勝ちました。
 このとき頼朝に与した佐々木経高が放った一矢は「これ源家、平家を征するの最前の一箭なり」と吾妻鏡に書かれ、まさに平家追討の幕は切って落されたのです。
 しかし、山木攻めに参加したのは桓武平家の末裔と称するものが多く、清和源氏からは1名もいませんでした。
 それは当たり前で、同族は尤も警戒すべきライバルといえます。当時、源氏は源氏方、平家は平家方に味方すると言う不文律もイメージも無く、どちらが損か得かで進退を決めていたのです。
 さて勝つには勝ったが問題はその後です。
 目代山木を討ったことによって、日和見をしていた東国武士たちは頼朝につくことになりますが、それには10日ほどを必要としました。
 従って、次の石橋山の戦いは準備不足のままに、少ない勢力で戦わねばならなかったのです。 (つづく)