その8 名児の浜辺の住吉

『日本人の認識の誤りを指摘する』 神戸にあった古代の難波     梅村伸雄 会員
 歴史の謎解きキーワード「名児の浜辺」から、次に探し出せたのが、人々の崇敬を集める住吉の大神の地である。
 嘉応2年(1170)の住吉社歌合に於いて、後白河法皇の皇女斎宮亮子(りょうし)内親王に出仕する殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)が、住吉の大神の所在地を名児の浜辺としている。
  住吉の なごの浜辺に あさりして 今日ぞ知りぬる 
 つまり彼女の歌は、和田の州にある名児の浜辺を指して、「ここ生けるかひをば
 調理された貝しか知らない娘にとっては、浜辺の貝が汐をフッと吹く、その情景が面白かったのであろうか、住吉の名児の浜辺で潮干狩りをして、初めて生甲斐(生貝)と言うものを知りました、と詠んでいる。が住吉の地ですょ」と教えているが、このことを彼女一人が言うのであればいざ知らず、多くの歌人が同様な歌を残していることに注目しなくてはならない。その例として、鎌倉期の歌人藤原定嗣も、同じような歌を詠んでいる。
  住吉の なご江の浜辺 満つ潮に 梶(かじ)振り立てて 泊る今夜か
 兵庫にある大きな湖は、引き潮時には湿地帯となり、満ち潮時には水が満々と溢れる美しい湖となる。さらに、満月が山の端に姿を現す頃には、「えも云はぬ入江の水など、絵に書かば、心の至り少からむ絵師は、書き及ぶまじと見ゆ」と表現した、『源氏物語』の美しい舞台が展開するのであり、その絶景を見る喜びを詠んだのが定嗣の和歌であるが、江戸前期に兵庫を訪れた林春斎が、『赤石八景の詩ならびに序』に於いて、「赤石の情景を詠む和歌は、千百首の多さといえども、その美しさは描写しきれない」と書き残した、千百首の内の一首でもあった。
 また、江戸中期の古典学者であり、水戸の徳川光圀の依頼によって『万葉集』の注釈を行った僧契沖(けいちゅう)も、いにしえの人々の歌に異論を唱えることなく、同じように詠んでいる。
  みそぎする 所もところ 住吉の なごの海辺に 神や和まん
 兵庫にある田蓑の島では、光源氏を含む多くの人々がみそぎを行っているが、住吉の三神の故事、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉国(よもつのくに)から逃げ帰った後、筑紫の檍原(あはぎわら)で海に入り、身を清める禊(みそぎ)をして、住吉の三神を生んだ、この例に習い、住吉神社近くの岸辺では、悪をはらい、良いものを生む、みそぎの風習が引き継がれていた。そして、畿内に於ける禊の始まりが、ここ兵庫であったようである。
 契沖は、その由緒ある住吉の名児の海辺で禊が行われたので、荒れ狂う地祇(くにつかみ=国土を治め守護される神)の気持も和らぐであろう、と詠んだのである。
 ここ名児の浜辺は武庫郡と呼ばれ、雄伴(おとも)・武庫(むこ)・菟原(うばら)、三名一国と言われていたように、菟原郡でもあったため、この地の住吉は菟原住吉と呼ばれていたのであるが、菟原住吉には計り知れない由緒が残されているので、これからの話の展開に注目していただきたい。
 先ず『住吉相生物語』には、大阪の住吉神社に劣らぬ住吉神社が兵庫に在ることを伝えているが、これこそ菟原住吉であり、その由緒の深さを物語っている。以下、意訳文。
      住吉造営之事
 天平勝宝年中(749〜757)、孝謙帝へ住吉大明神の告げられたのは、
  夜や寒き 衣や薄き かたそぎの ゆきあひのまより 霜やをくらん
 「世の中が寒さを感じさせるのであろうか、住吉の大神に対する庇護が十分でないからであろうか、住吉の社は荒れ果てたままであり、寒さがしのび込んでくる」の一首で、ご神詠の中には造営を促す意味が込められている。
 このご造営の件について、昔は20年に一度ずつ式年遷宮のご沙汰があったものであり、造営により種々の霊瑞ありと言はれることもあるので、この際、ご造営を考えてみなければならない。然かも、これは我々にははかり知れない神秘な事でもあるため、軽々しく扱うわけにはいかない。
 この様な事情で、今回、ご造営した所は、住吉大小諸神の外末社の全てであり、長居の宿の東一社、平野の南の一社、渡辺一社、生魂一社と菟原四社である。
 特に、菟原四社の宮作りは、住吉の本宮の様に小社等があって、八部(やたべ)の名所と言はれている。現在、この社を称して住吉と申し上げているのである。
 この住吉相生物語には、八部の菟原、即ち、生田川と須磨の間にあった菟原の地に、大きな住吉神社が建立され、着工3年後に遷宮されたことが記されているが、特に気になるのは「この社を称して住吉と申し上げている」という点であり、これは菟原住吉が住吉の元祖であることを告げているようでもある。
 では、兵庫の何処に遷宮されたか、と言えば、確かな文献とは言い難いが、『源氏物語』にその所在地が記されている。
 源氏物語の次の文は、源氏の君が、須磨で凄まじい雷雨に遭った時のことである。
「住吉の神近き境(さかい)を静め守り給ふ。まことに跡を垂れ給ふ神ならば、助け給へ」
と源氏は、哀れにも住吉の大神に救いを求めたが、ここでは「神近き境を守る」と記し、住吉の大神が国境を守る神であり、摂播両国の境に住吉の大神が鎮座していたことを我々に物語り、そこは源氏の君が一時政治から身を退いた須磨に近いことを語っている。
また、この時の侍臣は、
「罪なくして罪に当り、つかさ位を取られ、家を離れ、さかひを去りて、明け暮れ安き空なく嘆き給ふに、かく悲しき目をさへ見、命つきなむとするは、さきの世の報いか、この世のをかしか。神仏明らかにましまさば、この憂へ安 め給へ」
と嘆いているが、侍臣のぼやきの中に「境を去りて」と認められているのは、須磨が畿外であり播磨の国であることを、紫式部の豊かな教養が当時の国境を我々に教え、彼女の教養が後世に大切な資料を提供し続けていたとは、誠に有り難い話である。
 そうなると、大化改新詔に記す畿内の西端「赤石櫛淵(あかいしのくしぶち)」も須磨の東になくてはならないが、紫式部が教える須磨の東には、間違いなく「赤石」の異名を持つ兵庫がある上に、和田の州には、櫛の歯状の州の痕跡が明治24年の「神戸市全図」に残っているのであるから、ここに在った湖こそ「赤石櫛淵」であったと見做すことができる。

 「日本紀の局(つぼね)」と呼ばれた紫式部は、『紀』に記される「赤石櫛淵」を、彼女の残した香り高い古典の中に残し、遺跡の発掘作業などでは得られない、貴重な資料を後世に伝えていたのである。感謝々々。
 また、『住吉相生物語』では、「この社を称して住吉と申し上げている」と記し、菟原住吉が住吉の元祖であるかの如き記述があった。
 そこで、『紀』の注釈本である『釈日本紀』の巻六(『摂津国風土記逸文)の記事を参照してみる。
 摂津の国の風土記に曰く、住吉(すみのえ)と称ふ所以(ゆえ)は、昔、息長足比売(おきながたらしひめ)の天皇(すめらみこと)のみ世、住吉の大神現れ出でまして、天の下を巡り行でまして、すむべき国を覓(ま)ぎたまひき。時に、沼名椋(ぬなくら)の長岡の前(さき)〈前は、今の神の宮の南の辺(へ)、是れ其の地(ところ)なり〉に至りまして、乃ち謂(の)りたまひしく、「斯(こ)は実(まこと)に住むべき国なり」とのりたまひて、遂に讃め称へて、「真住(ます)み吉し、住吉(すみのえ)の国」と云りたまひて、仍ち神の社(やしろ)を定めたまひき。今の俗(よ)、略(はぶ)きて、直(ただ)に須美乃叡(すみのえ)と称ふ。
万葉集』の中には、
  たまはやす 武庫の渡りに 天伝ふ 日の暮れ行けば 家をしとぞ思ふ
玉を栄(はや)す武庫の湊まで辿り着き、都も近くなったが、日の暮れるにつれ、やたらと家のことが恋しく思われる、と詠む歌がある様に、兵庫は「玉栄(たまは)やす武庫」と言われていた。
 兵庫の枕詞「玉栄やす」は、玉を磨く職人のいた「玉造(たまつくり)」のことであり、玉を磨くのに葉面のざらざらした椋(むく)の葉を使ったところから、武庫は「椋(むく)の土地」と呼ばれ、後に「むこ」と訛り、次いで武庫の字が当て嵌められた、と言われている。(角川古語大辞典)
 一方『風土記』では、住吉の神の鎮座した土地を「沼名椋(ぬなくら)」と呼んでいるが、この地名を字義で捉えるならば、「沼は椋(むく)と名づく」であり、兵庫(むく)にあった大きな沼とも谷とも呼ばれる湖のほとりが、住吉の神の鎮座された土地である。
 次いで「長岡」と呼ばれた長い岡は、湖の東にあった塩土山(塩槌山)とも住吉の松嶺とも呼ばれ、海に面した部分が断崖絶壁であるため、珍しい打ち返しの波を造り上げては、多くの藻塩草(もしおぐさ=和歌)の種(たね)を提供したのである。
 その岡の西端が、JR兵庫駅東付近の羽坂通辺りであり、そこから七宮神社辺りまで岡が横たわっていた、と言う伝承からすれば、JR兵庫駅東付近が「長岡の前(さき)」に当たり、その北方付近(新開地の西付近)に、菟原住吉があったと言えるが、「長岡」が伝承の通りに実在していたのであり、先ずはそれを紹介しよう。

 阪神大震災の後、神戸市教育委員会が発掘した阪神高速道路柳原入口付近①には、鎌倉期幕府成立から近世にかけての良好な町屋群が現れたが、鎌倉期以前の住居跡がなかった。その理由を明かすならば、鎌倉期以前、そこには塩土山があったため住居跡など現れる筈がない、と言うことである。
 この発掘がもたらした事象は、平安末期、平清盛が経ヶ島を築いた時、岡の半分が島の埋め立てに削られ、削られた跡地に鎌倉期に入って住居が建てられたことを物語っている。また、七宮神社付近②で江戸時代の遺跡が発掘されているのは、同じく、江戸時代の直前まで塩土山の残存部が残っていたことを物語り、湊川の付け替え、兵庫城下の整備になどにより、歴史に名を残した塩土山、またの名を住吉山と呼ばれた長岡も、ついにその姿を消し去ったと言うことである。
 そもそも『紀』では、住吉の三神、表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男(そこつつのお)の祭られた所を「大津の淳中倉(ぬなくら)の長峡(ながお)」と記し、『釈紀』(『釈日本紀』)が記す「沼名椋(ぬなくら)の長岡の前(さき)」の表現とは異なるが、『釈紀』は『紀』の注釈本であり、卜部兼文(うらべのかねふみ)が鎌倉末期(1274〜75)、前関白一条実経『紀』について講義した時、当時の人に分かりやすく注釈したものを、息子の卜部兼方(かねかた)が書き残したものであるから、『紀』と『釈紀』の内容は同じであり、表現方法が異なるに過ぎない。
 つまり、同じ「ぬなくら」の読みであっても、「大津の淳中倉」は水を満々と湛える大湊であったことを表すが、「沼名椋」は土砂の堆積により沼化して湊が喪失した状態を表し、『釈紀』当時の人の理解出来る内容に書き換えられている。また、『紀』に書かれた「長峡」は、和田岬の河口から湖までの水路であったが、この水路も埋まり、住吉山である「長岡」の方が当時の人にとっては分りやすく、さらに「長岡の前」と書き、「(前は、今の神の宮の南の辺、是れ其の地なり)」の注釈を入れたのは、当時、残っていた長岡の先端の北、即ち、新開地の南西付近に菟原住吉があったことを卜部兼文が教えていた。
 現在、わが国最古の歴史書である古事記日本書紀は、あわれにも無視され続けているが、この様に古代の謎解きには素通りできない記事を潜ませている。
 平安時代歌人壬生忠岑(みぶのただみね)は、「友人が住吉に詣でるので、詠んで差し上げた」と述べて、次の歌を詠んだ。
  住み吉と あまは告ぐとも 長居すな 人忘草 おふといふなり
 住吉さんのある兵庫は、住み吉いからゆっくりしなさいと海女が誘っても、決して長居は無用です。素晴らしさの余り、人との関わりを忘れさせる、と言われる草が生えています、と忠岑は告げたが、紫式部林春斎も絶賛した兵庫の湖の東岸に、住吉の大神が鎮座していたのである。
 昔は「住吉」を、「すみのえ」と読み「墨江」とも書いていたが、硯(すずり)の水を溜める窪みを墨池(ぼくち)・墨(すみ)つぼなどと呼んでいたところから、兵庫の湖を墨つぼになぞらえて「墨江」と呼んだものか、あるいは、畿内の一番隅にあったところから、「隅江」と呼んだものかは分りかねるものの、「墨」「隅」いずれにしろ兵庫にかかわりのある名であるのは間違いない。
万葉集に於いては、「住吉」と書かれても「すみのえ」と読んでいるが、古今・伊勢物語の時代になると「すみよし」と呼んでいるので、現在の住吉神社の呼び名は、この頃からのものではなかろうか。
 さて、『紀』では、兵庫に在った湖が「大津」であったと書き残し、大きな問題の介在を示唆している。
 何故ならば、従来、遣唐使船発遣の地を大阪の難波津としていたが、昔から都の玄関口は兵庫と言われ、そこに大津があったとなると、遣唐使船発遣の地も兵庫となるため、史観そのものが大きく変わってくる。
 そこで、兵庫にあった湖の実態を今少し掴まねばならないので、『和名抄』泊の条に載る次の文を参照したい。
  坤元録云、雍州有百頃泊 岐州有荷池泊、今案播磨国大輪田泊此類也
 先ずこれを意訳すると、「坤元録(こんげんろく)が記すには、雍州(ようす)には百頃(けい)〈約百ヘクタール〉の泊があり、岐州(ぎす)には蓮の葉の形をした泊がある。今考えるに、播磨国大輪田の泊がこの種類に相当する」となる。
 この資料は、大輪田泊播磨国に所属していると述べると共に、その泊の規模と形状は、中国の有名な泊に匹敵する物である、と大輪田泊を高く評価している。
 ここに記す『坤元録』とは中国の地誌であり、『日本紀略』天暦三年(948)の条に、坤元録の絵を屏風八帖に描かせたことが見える様に、遣唐使船の往来華やかなりし時、既に中国では、大輪田泊の情報を地誌に書き記していたのである。因みに、約百ヘクタールの湖となると、ポートアイランドの四分の一の大きさ、甲子園球場の30倍にもなる大きな水域であり、応神天皇31年紀に、
  諸国一時に五百の船を貢上る、悉に武庫水門に集ふ。
  是の時に当りて新羅の調使共に武庫に宿る。
とあるが、応神天皇の御代、諸国に五百隻の船を貢がせ、これを武庫水門に集結させたが、この時、新羅の船も武庫水門に停泊したとある。これから見ても、大輪田泊は多数の船を一時に収容出来る、誠に得難い泊であったことが分る。
 そこのところを万葉集においては、次の様に歌っている。  
八千桙(やちほこ)の神の御世より 百船(ももふね)の泊(は)つる泊(とまり)と 八島国百船人(ももふなびと)の定めてし敏馬(みぬめ)の浦は 朝風に浦浪さわぎ 夕浪に玉藻は来寄る 白沙(しらまさご)青き浜辺は 往き還り見れど飽(あ)かず 諾(うべ)しこそ見る人ごとに語り継ぎ偲(しの)びけらしき 百世歴(ももよへ)て 偲(しの)はえゆかむ清き白浜
        反歌二首
  まそかがみ 敏馬の浦は 百船の 過ぎて往くべき 浜ならなくに
  浜清み 浦うるはしみ 神代より 千船の泊つる 大和田の浜
 これらの歌は、遣唐使船発遣の地が兵庫であることを示唆するものであるが、時が来たならば、津の国の難波津が兵庫であることを論証する予定である。(つづく)