その1 はじめ

『日本人の認識の誤りを指摘する』 神戸にあった古代の難波     梅村伸雄 会員
 「難波」といえば、誰もが大阪を思い浮かべ、「古代の難波は大阪であり、この定説は間違いない」と考えるのが江戸時代以降の日本人の常識である。そして、この常識にいささかも疑いを持たない難波の研究者達は、考徳天皇の難波長柄豊碕宮や聖武天皇難波宮などを、古地名に依存して北区本庄・長柄辺りとしたり、地形に基づいて大阪城辺りの上町台地として、それぞれ難しい論陣を展開していたが、近年は、山根徳太郎の執念をもって発掘した上町台地北端の宮跡を、奈良時代難波宮大極殿の発見であると見なし、彼を「日本のシュリーマン」と絶賛している。
 そして今日「戊辰(648)年」の文字が書かれ、献上品を記したとみられる木簡が大坂城の南西から出土したため、これこそ前期難波宮跡を示す史料であると地元は盛り上がっているが、果たしてそれが正しいのであろうか。
 この日本人の常識に大きな疑問を抱いたのが私である。
その発端は、源義経の逆落しの場所を捜している最中、合戦の舞台を「難波一の谷」と呼び、平家の軍勢が屯ろした土地を「難波潟一の谷」と記しているところから、神戸が「難波」と呼ばれていた時代があったことを知り、その難波は、古代から連綿と続く由緒深い難波の地を指しているのではないか、という大きな疑問を抱くようになった。
 さらに、私の疑問を追及して行く過程に於いて、必ずといっても良いぐらい難波・明石・住吉・四天王寺のところで、たたらを踏むような戸惑いを感じたが、これが何に起因するものか当初は全く分からなかった。
 その例を二三拾ってみると、大阪には住吉大社があるが、津の国と呼ばれている八部(やたべ=生田川から須磨の間)にも、昔から菟原(うばら)住吉とも呼ばれた大きな住吉社があって、この住吉社について多くの和歌が詠まれている。遣唐使船を見送る歌として、
  住の江の 得名津に立ちて 見渡せば 武庫の泊ゆ 出づる船人
と詠まれた有名な歌があるが、これは間違いもなく菟原住吉を詠んだ歌であり、大阪の住吉社で詠まれた歌とすれば、見える筈のない武庫の泊を詠んだ歌となり、たたらを踏むどころでは済まされない。
 また鎌倉時代の高僧慈円和尚が天王寺を詠んだ歌に、
  難波津に 人の願いを 満つ潮は 西を指してぞ 契りおきける
の歌がある。大阪の満ち潮は東向きに流れ、決して西を指して流れることはない。従ってこれら歌は、大阪の住吉や天王寺以外にも住吉や天王寺があったことを示唆しているが、果たしてそのような寺社があったのかというと、それが間違いなくあった。
 南北朝争乱の真っ直中、南朝後村上天皇が大阪の住吉社を行宮(かりみや)として、楠正儀(まさのり)が大阪の周辺一帯を支配していた争乱の時期に、北朝方の将軍、足利義詮(よしあきら)が住吉と天王寺を詣でる紀行文『住吉詣』を残しているが、学会では南朝の根拠地に北朝の将軍がのこのこ出かける筈はないとして、この貴重な資料である『住吉詣』を、近視眼的にも虚構の紀行文と見なして無視、大阪以外の地にも住吉と天王寺があったことなどに、一かけら程の疑問さえも持とうとしない。
 武庫と呼ばれた兵庫の土地は、度重なる洪水に地震、そして津波などの自然災害に加え、幾多の戦禍に遭遇して、貴重な家々の日記、寺社の記録、代々の文書が喪失したり灰燼と化して武庫の土地を正確に書き止どめるものは少ない。また、菟原住吉や武庫の天王寺について残された数少ない資料も、現存する住吉や天王寺のものにされたり大阪の難波のものとされ、大阪のものとしたらたたらを踏むような資料も、誤りの資料と短絡的に決め付けられてお粗末な改ざんが加えられたりしている。
 この重大な誤りに気付かれない兵庫の歴史には、悪戯好きな悪鬼がけたたましく笑い転げ、悪霊が舌を出しながら暗雲の中を嘲り回っているのではないだろうか。
 住吉・天王寺・難波・明石など、我々に疑問を投げ掛ける多くの資料の中で、特に和歌から生まれる疑問がはなはだ多いことから、和歌に着目すべしと考え、数万の和歌の内から数百の和歌を引き出し、歌に詠み込まれた土地の情景を集約し分析したところ、見事にいにしえの土地の地勢や情景が浮かび上がってきたが、これはどういうことであろうか。いにしえを探るのに、重要な手掛かりとして和歌に尋ねてみるのが、一番確かな方法であることを示唆しているようにも思える。
 和歌については、貴族の遊びの一つとして和歌その物を信用しない向きもあるが、それならば和歌を調査分析してゆく段階において、何故いにしえの情景や地勢が彷彿と浮かび上がってくるのだろうか。それは和歌が貴族たちの教養の一つであり、彼等が文化的教養のみならず天文地文にも長(た)け、当時の情景や地勢を巧みに和歌に盛り込んでいたからではないだろうか。
 一方、情景や地勢を間違って歌に盛り込めば知性の無さ教養の無さを露呈するのであり、彼等にとっては最大の恥辱となる。和歌の歴史を紐解くと、宮廷サロンに於いて互いのサロンが、文化の争いに和歌をもって火花を散らしていたり、和歌が権力闘争の舞台に使われたりしている。また、勅撰和歌集に選ばれるのが最大の名誉である当時の貴族は、どこに出しても笑われないだけの資料集めと研讚の積み重ねが必要であった。このような結果が、和歌に古文書や古記録にも見られない、いにしえの情報が凝縮されたわけであり、それを現代に伝えることができたのであろう。
 古記録や古典文学などは、歴史上に足跡を残した多くの為政者たちの作為や圧力、書写する人々の錯誤や誤解が重なり、原本とは大きく逸脱した記録や文学に様変わりして後世に引き継がれ、我々に多くの誤解を誘発させているが、この誤りに惑わされることもなく、為政者たちの改ざんの網の目をも潜った何十万何百万に及ぶ和歌が、わが国の貴重な歴史の原点を伝えているように思われる。
 和歌の歴史はきわめて長く、内容も、民族・国家・社会集団などの歴史的な事件や英雄の行為を詠んだ叙事詩、作者の感情や情緒を述べた叙情詩、歌の趣意を書き添えた詞書(ことばがき)、長歌のあとに添えて歌の内容を要約・反復・補足した反歌、歌合の際に判者が残した批評と判詞などは、後世の人々に毒され害されることもなく、我々に残されているが、その素朴な調べや優雅な調べの中には、いにしえの人達の貴重なメッセージが隠されている。
 平成10年9月、皇后さまが児童文学を語った中で、和歌について次のように語っておられた。「心がいきいきと躍動し、生きていることへの感謝がわき上がって来るような快い感覚とでも表現したらよいでしょうか。初めてこの意識を持ったのは、東京から来た父のカバンに入っていた小型の本の中に一首の歌を見つけた時でした。それは春の到来を告げる美しい歌で、五七五七七の定型で書かれていました。古来、日本人が愛し、定型としたリズムの快さの中で、言葉がキラキラと光って喜んでいるように思われました」。
 また『古今和歌集序』に、「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言(こと)の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。花に鳴く鴬、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやわらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり」と記されたように、皇后さまを含め多くの人々に感動を与え続けているのが和歌であり、そこに偽りや誤り見せかけがあったならば、天地や鬼神ばかりか誰も見向きさえもしないのである。
 この様に、和歌には真実を伝える資料が豊富に蓄積されているものと考えられるため、謎解きの主体を和歌として、難波と呼ばれた兵庫の歴史の発掘を試みるが、和歌には歴史の謎を解き明かす種があると、妙な信念を抱いてしまった男の謎解き、さて何が現れるのか、お付き合いの程をお願い致したい。
(つづく)