三木の形紙

                             坂本信子 会員
 昨今は街でも着物姿が見受けられるようになりました。
 明治、大正の古い着物を現代風に着こなしている若い女性を見ると、やや復権したかのような気配もみえますが、殆どの人は完成した製品の染め上がり、織りあがったものにのみ関心を持ち、それまでにどのような工程を辿ったのか知らないし、知ろうともしません。
 例えば、江戸の着物文化の粋といわれる江戸小紋は、型紙によって染められており、一寸四方の紙に八百~千粒もの彫りが施されて、わが国の染色史上、いや世界的にも美の極致といわれています。
 しかし、その染型紙の彫り師の腕を百%生かせるのは上質の地紙であり、最終的にはその型紙に糊置きする職人の技術が問われるのです。
 つまり、一枚の着物は多くの優秀な技術が駆使されるプロセスの結実として生まれているのです。
 そして、このうちの一工程としての型紙技術は他の工程に消滅因子が生じた時、共に衰微してゆく運命には逆らえず、衣生活の変化、利潤追求の前に今や伝統芸術として存在する道が残されているのみです。  
 私がこの染型紙を再認識したのは、あるきっかけでした。
 ある日、三木市の湯ノ山街道を友人の案内で散策していたとき、立ち寄った「ギャラリー湯ノ山みち」で館長筒井俊雄氏の厖大なコレクションの中の友禅の型紙に惹かれました。
 親離れも親孝行のうちと考えていた私にとって、「故郷は遠くにありて思うもの」であり、特に両親の死後は足が遠のいておりました。
 しかし、ギャラリーの型紙を見たとき郷愁に似た空気を感じました。実家は染色業を営み、私の幼い頃、板場(工場のこと)の長板に向かって黙々と型紙を置いて糊をひいている父や職人の姿、そして藍の匂いを思い出しました。
 ヘラを口にくわえ、僅か十五センチほどの幅に模様の彫られている型紙の合わせ星(型紙の天地、両端につけた目印の小さい穴)を真剣な眼差しで注意深くあわせている、そんな風景が目の前に見えてきました。
 わが故郷、岡山県高梁市はかつて備中松山五万石の城下町で、最後の藩主は老中職も務めた板倉勝静です。
 幾多の攻防、兵乱の戦国時代を経て、十七世紀に水谷氏三代の名君によって町並みの開発、整備がなされました。
 江戸時代の大名の城下町には住む人の職業、身分が一目でわかる町名が沢山付けられています。
 中間町、鍛治町、大工町、弓之町、石火矢町、伊賀町鉄砲町、正宗町、寺町、御前町などは今でも残っていますが、「牢屋小路」という物騒な町名は雅な「花水木通り」とこそばゆくなるような名前に変更されました。故郷を離れた人間にとってそれはやりすぎで、「牢屋小路」は昔を思い出させる名前であり、要らぬお世話といいたいところです。
 紺屋町も古い町名の一つで、紺屋(染物屋)が集って住んでいたのでしょう。そして、前を流れる川は紺屋川と称され、染め物の洗いなどに利用されていました。寒い冬に冷たい水の中で染物をすすいでいたのを日常茶飯事のように眺めていましたが、大変だったろうなと昔の職人の苦労が偲ばれます。
 我が家は明治初期頃よりこの地で紺屋を営み、現在でも印物(しるしもの)、手拭いなどを染めています。
 昔は友禅染もしており、型紙は私にとってそこら中にちらばっている新聞紙程度の身近な平常的風景であり、特別なものではありませんでした。
 「ギャラリー湯ノ山みち」に展示してあった型紙から故郷の香りを感じたのも、そんな中で育ってきたからでしょう。
 以前に掘光美術館で型紙を見たときには、それほどの感動を覚えなかったのは若かった故で、やはり年を重ねると故郷への愛着が折にふれ増してきたことを自覚します。
 早速、高梁の実家へ向いました。
 無造作に実家の倉庫に積み上げてあるホコリだらけの染型紙は千枚以上はあるでしょうか、昔と違い今の私にとっては宝物で、一枚一枚チェックしましたが、何分にも膨大な量で一度には無理なので、これについての分析はまたの機会にと心を残して帰りました。
 実家にある型紙は全て伊勢から仕入れたもので、大体型紙といえば伊勢というのが常識になっています。
 古くから伊勢の白子は全国的に染形紙の産地として有名で、そのため伊勢形紙は染型紙の代名詞となり、ときには白子型とも呼ばれていました。(江戸時代から伝統的には形紙と明記されています)
 正確には白子と寺家の両地区(何れも鈴鹿市)なのですが、白子のみが喧伝されるのは、旧藩時代に白子港が紀州家の御用貿易港であった為でしょう。そして、型紙行商人たちは御三家の威光を背に「通り手形」などの特権を与えられ、株仲間を組織し、全国に伊勢型紙を広めました。
 しかし、三木にも形彫職人がおり、伊勢型紙が全国シェアを独占していたわけではないということがわかったのは、つい最近のことです。
平成十年、姫路書写の里・美術工芸館の「染めの形紙展」開催にあたり、姫路で幕末から明治にかけて紺屋を営んでいた神屋家の所蔵する型紙の中に、三木の形屋の商印が数点発見され、以来三木において古文書研究と相俟って解明がすすめられました。
 三木の地元からも三木で彫られたと思われる型紙が数十枚発見されています。
 古文書の中に初めて三木の形屋の名が登場するのは延宝時代(一六七九)ですが、職人の修行が最低十年の徒弟期間を必要とすることを考えると、職人はそれ以前にいたということも考えられます。或いは江戸時代初期の安定期を迎え、秀吉以来の地子免許によって繁盛している三木の町に移ってきた職人がその源流だったかも知れません。
 特に享保十五年(一七三○)六月二十日の京都西陣の大火は公の庇護が受けられなかったこともあり、大勢の職人が地方へ分散しました。この時三木にも型彫り職人は移って来たに違いないと想像できます。
 型染めは絵師(デザイナー)が下絵を描き、型屋の手を経て型彫師が彫り、型付け師が糊置きして染め上げて完成します。しかし、肝心の絵師の名前はわかりません。そのかわり彫り師と形屋(型屋)の名前が残されていることは、その重要度の表れでしょう。
 染めを成功させるには形紙彫刻の出来が大切で、このためその模様を彫る地紙には高い品質が求められます。
 型地紙は細工しやすい、強靭さ、伸縮性が必要で、製紙工程の「紙つけ」(3〜4枚の和紙を貼りつける)と「渋つけ」(形地紙を柿渋液に漬け防水加工する)のうち「紙付け」のほうが大事で、一枚一枚の和紙が強力に接着されているからこそ彫刻刀で精緻な模様が型彫りできるのです。このとき接着剤として使用されるのが柿渋で、この時の柿渋には防水力でなく、接着力が求められます。
 型紙産業の発展維持には良質の地紙の確保は欠かせないもので、伊勢型紙は水に強く、伸縮性の少ない美濃紙を用いていました。柿渋のほうは試行錯誤の結果、岐阜県揖斐地方を生産地としています。
 このように型紙つくりにはそれに適した紙、柿渋の調達に苦労していますが、三木では厚めの杉原紙を使用し、品質のよい柿渋も豊富に手軽に手に入れることができたようですが、それに加えて彫り道具の調達、生産が容易であったということも、形紙産業の発展を促しました。
 よき彫師は自分でよき道具を作らねばなりません。多種多様な模様に応じ錐彫、突彫、道具彫、引彫がほどこされますが、これには多くの道具が必要で、人によっては三千本近くの道具を作り、備えている人もいたといわれます。
 後に三木市が金物の街として有名になったという下地もあり、この点でも条件が整っていたことがわかります。
 市有宝蔵文書によれば、寛保二年(一七四二)の「三木町諸色明細帳控」に大工、樽屋、籠屋、鍛冶屋などの諸職人家百五十五軒の中に紺屋二十六軒、形屋一六軒の記録が見られます。そして、それより二十年あとの宝暦十二年(一七六二)に発刊された地誌『播磨鑑』」に記されている「紺屋形 三木町ニテ彫之諸方ヘ売ニ出」から、三木で生産された形紙が特産物として各地へ売られていることがわかります。それに関しては鈴鹿市の文政六年(一八二三)の古文書に伊勢の形紙屋の販売圏に進出している三木の業者が訴えられた記録があり、各地に三木形紙行商人は脚を伸ばしていたのでしょう。
 伊勢型紙は廃藩置県により特権、庇護者を失い、株仲間も解散し不振が続きました。現在では無形文化財の指定(昭27)、人間国宝の認定(昭30)、通産省の伝統的工芸用具の指定(昭58)伝統工芸士の認定(十五人)伊勢型紙技術保存会も創設され、伝統技術の保存が図られていますが、三木型紙は大正初期の取引を最後に途絶え、この町にかつては形紙文化が花開いていたことは、金物産業の蔭に隠れて「知る人ぞ知る」にとどまっています。
 その理由を堀光美術館館長の石田安夫氏は分析されていますが、私が一番に感じたのは伊勢の場合は藩をあげてのバックアップによって、第一人者としての地位を確立した後の衰微なるがゆえに、存続維持を望む声もかすかながら続いていたと考えられます。しかし、三木の場合は金物の需要が増し、利益が期待できる金物産業への偏った経営努力が形紙産業の絶滅を招いたと思います。
 しかし、他の伝統工芸はそれのみで完結するのに比べ、形紙はプロセスの一つであるところに形紙の悲劇があります。
現在、他の伝統産業は機械の導入を極力排除する方向に向かっているのに、伝統産業といいながら、着物の製造工程は渋和紙が樹脂紙、写真型紙に変わり、糸入れ(二枚袷の地紙をはがして間に極細の絹糸を貼り渡し、元の通りにあわせる)が大正時代に考案された紗張りに、手染めが写真によるシルクスクリーンに変わっています。
人間国宝が彫り、人間国宝が糸いれした型紙の使い道が、額に入れて眺めるしかないと言う所に伝統文化とは一体何なのか、寂しさを感じています。型紙の「いのち」はそれによって染められ、着物に仕立てられ、着られることによって全うできるのではないでしょうか。
第二の故郷三木市の知られざる文化、形紙をもう一度再認識し、誇りとして紹介した次第です。
 参考文献 

  • 三木史談 第四十一号 (三木郷土史の会)
  • 研究紀要 第一号 (三木市立堀光美術館) 
  • 染めの事典(染織の文化) 朝日新聞社
  • 人間国宝シリーズ (伊勢型紙)
  • 日本の伝承切り紙  熊谷清司