境界争いの歴史的考察(1)

                                中西輝夫 会員
 大阪の陣のあと元和三年(一六一七)摂津三十八万石のうち、尼崎藩五万石で譜代の戸田氏鉄が大津膳所三万石より入城、大阪城西の備えとして新城を築きこの地方も新しい時代を迎えます。戸田氏にいたるまでの池田家、建部家、下間家の閨閥と西摂津尼崎関係を少し振り返ってみます。
池田家
 楠正行の後裔、摂津の国の住人池田氏は縁あって下克上の時代に美濃に住み着き、養徳院(池田恒興の母)は足利公方万松院殿に仕えていた紀伊守恒利を婿養子として迎え、二十二歳で恒興を生みますが夫恒利死亡。この頃の織田氏は足利幕府三管領の一人斯波氏に仕え、越前丹生郡織田荘の荘官を経て、応仁、文明の乱以後、斯波義重の重臣の一人として尾張守護代を勤め、応永年間に清洲城を築き、尾張上四郡の織田氏、岩倉城の下四郡織田氏に分かれます。
 この清洲城の織田大和守に三人の奉行があり、その一人が織田弾正忠信秀(後備後)で、信弘(異母兄)、信長、信行、信包、信治、信時、秀季、長益、長利、お市の方など子供が生まれます。信長は(三男か)天文三年五月二十七日(一五三四)那古屋城で出生、幼名は吉法師、長じて三郎、天文十五年(一五四六)十三歳の時、古渡城で元服し、三郎信長と名乗ります。初陣は元服の翌年三河吉良の大浜の戦で平手政秀が後見しました。
 信長が生まれた時、疳が強く何人もの乳母の乳首を噛み切り、弱り果て池田恒利の後家養徳院を乳母として招いたところ、不思議にこの人の乳首は噛まなかったといわれ、彼女の長男恒興は清洲で信長の乳兄弟として共に育てられます。
 女丈夫の養徳院は、慶長十三年備前の利隆のもとで九十四歳で亡くなるまで、備前因幡伯耆の池田家を見守り後見を勤めました。

 信秀は主家の大和守を凌ぎ上四郡を支配し、下四郡も圧し、東の今川氏や美濃の斉藤氏との戦に明け暮れます。信長十六歳の春、父信秀が四十六歳で病死、跡目の信長が尾張統一を目指し、弘治元年(一五五五)二十二歳の時(このころ芦屋、本庄、社家郷の山争いが始まる)尾張上四郡の小守護代酒井大膳を追放し、守護の斯波義統を殺害した守護代の織田彦五郎信友(広信)を守山の叔父信光とともに攻めて切腹させ、尾張半国を征服。また信光と図って清洲城を乗っ取り、その上で信光を謀殺。弘治三年(一五五七)十一月弟の勘十郎信行が下四郡の守護代岩倉城の織田伊勢守と内通との風評を聞き、信行を清洲城へ呼び寄せ、乳兄弟の池田恒興(ときに恒興こと信輝は二十一歳、後に本能寺で信長死後剃髪して勝入斉と称す)に命じ殺害します。
 勘十郎の室は荒尾美作守善次の娘で、すでに懐妊していた為、信長は恒興に預け、女子が生まれ「七条殿」と名付けます。この後信長の命令で恒興こと信輝に再嫁し長男之助と(元助、紀伊守忠勝)次男輝政(三左衛門、永禄七年十二月生まれ)が清洲で共に育ちます。
 成人後、七条殿の嫁ぎ先にかかわり池田、下間、建部氏との関係が生じます。永禄元年(一五五八)藤吉郎(秀吉)が十八歳で信長に仕えています。
 永禄三年(一五六○)駿河今川義元が二万数千の大軍を率いて上洛を目指し出陣、西へ向かいます。信長は三千の兵で迎え撃ち五月十九日桶狭間で義元の首を取り、終に尾張一国の統一を果たしました。今川などの人質として十六年間苦労した徳川家康三河岡崎に帰って独立、清洲城で信長と会合、攻守同盟を結びます。
 永禄十年八月十五日(一五六七)信長は舅道三の仇討ちの名目で、美濃稲葉城を攻め落とし、斉藤義龍は滅亡、信長は中国の周の文王が岐山に拠って天下統一を果たした故事にならい岐阜と改め、「天下布武」を目標に自ら上洛の道を開き天下に号令することを策しました。
 柴田、丹羽、瀧川、佐々、佐久間、森可成池田恒興らも信長に随って、西に東に休む間もなく合戦に明け暮れ、活躍し手柄を立ててゆきます。
 また信長は越後の上杉氏、甲斐の武田氏、近江の浅井氏とも同盟し、遠交近攻政策を進め、時の正親町天皇から勅書も下り、美濃と尾張の皇室領の回復と、室町幕府の再興を託され征討の大義名分を手にいれます。
 永禄十一年九月十九日(二十六日の説あり)明智光秀細川藤孝を通じて信長を頼った足利義昭を奉じ上洛を果たし、義昭を足利十五代将軍職に就任させます。この年から翌年にかけ摂津、河内などを瞬く間に平定、永禄十二年四月十四日二条城を築城し、義昭を住まわせますが、将軍義昭は信長の勢力が強くなるのを恐れ南都北嶺の寺院僧兵や一向一揆の勢力、石山本願寺門徒、遠くの国々の大名に手紙を出し、室町幕府の権力回復を図りましたが、何れも失敗に終わり、天正元年(一 五七三)終に信長に降伏、足利幕府は十五代で滅び、義昭は安芸の毛利を頼って落ちてゆきました。彼は秀吉の時代になって大阪によばれ、一万石をもらい世を終わっています。
 また元亀元年(一五七○)浅井、朝倉連合軍と姉川で合戦、同二年から伊勢長島の一向一揆との戦い、九月には過去誰もなし得なかった比叡山延暦寺の焼き討ち、天正元年(一五七三)義昭を追放し、引き続き朝倉義景浅井長政を滅ぼし、天正三年(一五七六)家康とともに、長篠の合戦武田勝頼を破り、越前一向一揆を皆殺しにして越前府中を制圧。天正四年には安土城築城、石山本願寺攻めを開始。天正五年(一五七七)根来雑賀の僧徒攻撃。松永弾正久秀が信貴山城で叛き、十月これを攻め爆死させ、同八年播磨三木城を攻め、城主別所長治の切腹で三木城陥落。
 正親町天皇の斡旋で石山本願寺と和睦開城させ、丹波の波多野は光秀によって征伐され、残る敵は東に北条、北に上杉、西に毛利、九州に島津、四国に長宗我部などとなります。  
 秀吉に中国攻めを命じ、秀吉が備中高松を攻撃中、毛利が援軍を派遣との報に、秀吉より救援の要請があり、自ら京都に入り本能寺に宿泊。天正十年六月二日未明、明智光秀に襲撃されて火中にて自刃、四十九歳でした。嫡男信忠も二条城で村井貞勝(七条殿の婿)とともに切腹し果てます。
 一方恒興改め信輝は姉川の合戦に織田方の第二隊三千人を引き連れ参戦し、犬山城とその周辺で一万貫を与えられ、信長の行くところ常に帷幄の人として行動していました。詳細記録はありませんが順調に出世したようです。
 天正六年(一五七八)池田親子は堀久太郎秀政、万見千千代、瀧川左近一益、丹羽五郎左衛門長秀などと、毛利や石山本願寺と組んで叛旗を翻した荒木摂津守村重一族と西摂津で戦い、西宮、芦屋、菟はら、住吉、御影、雀の松原、滝山を始め兵庫、須磨、一の谷へ討ち入り堂塔伽藍仏像経巻などは一宇も残さず灰燼に帰し雲上の煙となり、このためこの地方の貴重な文化財が多く失われました。
 同八年花隈城攻めには次男輝政が初陣。七月には城を攻め落とし、信長より西摂津十二万石を与えられ、伊丹城に之助、尼崎城に輝政を置き、信輝は花隈城を解体し兵庫城を築きました。そして兵庫の津(切戸町新町関屋町辺り、明治の新川開鑿により川底となった)を整備し、之助らに守らせます。
 本能寺の変のとき、信輝は尼崎にいて四国攻めの準備を織田信孝(信長三男)や丹羽長秀などと進めていましたが、毛利と和解し引き返した秀吉に与みします。

 天正十年十二月池田紀伊守忠勝(之助)が芦屋、本庄の山論訴訟を、弘治三年の三好日向守(長康または長逸)の裁定にならって(別紙の通り)裁き芦屋庄に下げ渡しています。
(つづく)