(五)

http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050117(からの続き)
ロマンチストにしてくれる 『赤松系図』との出会いについて
                                    八瀬 久 会員 
 昨年の七月だったか、私は三年ぶりに赤松氏に関する三冊目の作品『赤松円心』=虚像と実像=を書き、書店や知己・縁故の方々に随分とお世話になったものだ。
http://tatsulib.city.tatsuno.hyogo.jp/scripts/Books.dll/detail?result_set=13516&result_no=75
 平成十年に『嘉吉の乱始末記』を出し、十二年に『赤松氏銘々伝』を出した頃から増え始めた各地の講演依頼は、今回の出版でより多くなっている。立て続けての出版で、赤松歴史に対する私の立場が少しは認められだしたからかもしれない。
 その辺りを裏づけるように、最近は赤松史に関する問い合わせの手紙や電話、自家に伝わる赤松系図の話を持ち込まれる方々が多くなっていて、伝来の系図コピーを送って來られることの頻度が高くなっている。
 私はその都度、どんなに忙しい中でも、詳しく調べた上で注釈や私見を加えた返事を出すことにしているが、そんな後で、手紙全体に喜びや感謝の気持ちが滲む礼状を貰った時の嬉しさと充実感は、何物にも代え難いものがある、ここで少し系図部集の歴史を述べた上で、赤松系図について触れてみたい。
 日本国での代表的な系図部集には『尊卑分脈』『群書類従』の中の系図部集『寛政重修諸家譜』『系図纂要』の四編がある。

  • 尊卑分脈足利時代の一三九九年に洞門公定により作られた。
  • 群書類従』=系図部集=安永八年(一七七九)~文政二年(一八一九)の四十年を掛けて塙保巳一が編纂した。
  • 寛政重修諸家譜』寛政十一年(一七九九)~文化九年(一八一二)の十三年を費やして幕府が直轄事業として取り組み完成させた。
  • 系図纂要大東亜戦争終戦後一九七三年に尊卑分脈を改補訂して、宝月圭吾と岩沢愿彦二人が監修して出来ている。

 一三九九年といえば、赤松氏では四代目義則が足利幕府の侍所として大いに活躍していた時代であり、赤松系図が記載されていたとしても、満祐のことや〃嘉吉の乱〃当時、それ以後については後の時代に追加挿入した訳である。それ以外の部集については、当然ながら後の時代だから、精選吟味して作成されたことだと思う。
 勿論全ての中に赤松系図は記載されているが、他家は殆ど一編づつがある中で,『群書系図部集』には、赤松系図のみ七編に加えて同じ氏族の有馬氏と石野氏の都合九編もの併載がなされている。そのことをもってしても、如何に赤松系図が多岐に亙っているかを物語っている証明だろう。
 何処の家系にも言えることだが、これらの系図の外に、各家々に伝わるその家独特の系図があるから、それらを若し網羅するとしたら、想像もつかないほどの膨大な種類に分かれた赤松系図が存在していることになる。しかし、その様な事が出来る筈はないが・・・。
 私が赤松氏を書き又は語るとき、主として使用する系図は、赤松円心菩提寺である上郡町苔縄在の寺院法雲寺に伝わる『赤松大系図』から引用しているが、敢えて『群書系図部集』と比較すると、第二編目のものに近い系図である。
 私方の持ち込まれた数編の『赤松系図』を見ると、基本形態は法雲寺系の系図であり、各家毎に変化するのは円心から四~五代後に存在する人から枝分かれしている物が殆どだ。つまりは〃嘉吉の乱〃前後の箇所で、その家特定の人物が記載されていることが多い。
 読みようによっては同一人物と想像したくなるものもあるし、死んだ筈の人が実は生存していて、子孫が現在に至ったもの、どの系図にも全く登場しない人物が記載されて今に至っている系図等々、眺めていて楽しくなることや、わくわくする文言が披瀝されているものにも、しばしばお目に掛れるのだ。
 私方に齎された数々の中で、特に私の興味を引いた例から四編を述べることにしたい(当該の家々に差し障りがあっては困ることから、場所や姓氏・名前などは伏せる)



その一 兵庫県下にある某寺院のこと
   寺の縁起に述べられている。則祐より三代後の人物が、応永十三年(一四○六)逃れて隠棲したとか、この人は則祐が陣中で所持していた仏像を譲り受けており、その仏像を後の時代になって寺院で祭紀した云々と。
赤松系図の中にある或る人名を読み替えると、この人物と同じだ。系図上の人は〃嘉吉の乱〃直前に死亡しているが、生前には二つの城で城主をしているものの、他の人々に比して極端に記載が少ない点から、強いて想像を逞しくすると、同一人物と考えられなくもない気がするが・・・。
その二 大阪府下の某家のこと
   同家に伝わる系図によると、赤松二代目惣領家の子孫だが、〃嘉吉の乱〃の二十年程前に、武家を廃して他所に移り住んだ。ところが乱直後の時期に、赤松発祥の地に菩提寺を含む広大な土地を取得して帰参したことが判った。
   乱の後は、播磨を手中にした山名氏が統治していた筈。そのような時代に、赤松氏のメッカとも言うべき土地や寺院が、然も赤松氏の中心的な家系の子孫によって取得出来たのは何故?管領職にあった細川氏、為政者の山名氏らによる、何らかの仕掛けがあるように感じられてならない。
その三 岡山県勝田郡出身の某家のこと
   同家に伝わる系図では、赤松惣領家二代目範資に、二代目相続をした代数がなく、満祐が四代で五代には何と義雅が当たり、後期初代の筈の政則が六代目と記載されている。更に義雅については、城ノ山合戦に先立つこと一カ月前の八月十二日、蠏坂(カニガサカ)の大将であった義雅が、手勢三百七十八騎を伴って京方に加担したこと、享徳三年(一四五四)に五十八歳で自客(自分で死んだ)したことや、〃嘉吉の乱〃より十三年も後まで生存したとの記載である。しかし、義雅は蠏坂から撤退後、城ノ山落城の時(嘉吉元年、一四四一)満祐らと共に自害し、四十五歳であったとするのが通説である。
また義則の子である祐尚が満尚と記載され、その子則尚には太谷を号した(この姓から現代に繋がっている)との記載がある。
更に義雅の子である性存は、伊勢に逃れて多気郡松安寺に住み、弘正年中(康正=一四五五~七=の間違い?)に播磨に帰った等々、他の系図にはない際立った異なりが見られるが・・・。
その四 愛知県岡崎市の某寺院のこと
   同寺院縁起の外、同家に伝わる『赤松有馬杉浦大山系図』には、〃嘉吉の乱〃の際に伊勢へ逃げたことが詳しく述べられている。
系図では、通説と違って、満祐の子が教祐であり、この者が北畠家の娘婿とある。有馬家の祖である義祐の弟に貞資(初めて聞く)を据えて、その子には貞房(これも始めて)、孫に教康と書かれている。一同が伊勢に逃げた際、貞房が北畠家に対して、「教康は教祐殿と同年にて、殊に面影も相似て候」と身替わりを申し入れた結果、教康が切腹し、教祐ら赤松一統は三河国に落ち延びたと書かれており、その後、貞房は母方の姓である杉浦を称した(この子孫が現代に繋がっている)と。
 ところが通説では、教康が満祐の子であり、教祐は伝説上の人物、或いは教康と教祐が兄弟説、または何らかの意図から同一人を区別して物語に登場させたとか、教祐については全ての系図に記載がないのである。

 このように、これらの説が正しいものであれば、歴史を書き換えねばならないような記載のある『赤松系図』が存在しているのである。そして、まだまだ我々の知らないびっくりするような『赤松系図』が各家々の奥深くにひっそりと眠り続けていることだろう。
 今の時代となっては、現在通説として罷り通っている『赤松系図』が正しいのか、巷間で密かに存在し、各家々に伝わる『赤松系図』の方が真正なのかは、神のみぞ知るで、俄に判定はし難いが、ロマンを掻き立てる意味では大変意義深いものがある。
 世の中に存在するであろう全ての『赤松系図』(他家のものも同様であるが)を集めて、検討することが出来るなら(勿論出来る筈はないけれど)我々にとっては、到底考えも及ばない結果の、真実らしい姿が浮かび上がって来ることだろう。こんなことを思い巡らせていると、自然に顔が綻び、気持ちもワクワクして来て、何だかロマンチストになったような気分がして来るのである。
                                (おわり)