播磨の名族、赤松氏家系の謎

(五)

http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050117(からの続き) ロマンチストにしてくれる 『赤松系図』との出会いについて 八瀬 久 会員 昨年の七月だったか、私は三年ぶりに赤松氏に関する三冊目の作品『赤松円心』=虚像と実像=を書き、書店や知己・縁故の…

(一)

八瀬 久 会員 太平洋戦争の終戦迄は、皇国史観や軍国主義に基づく国策からの教育で〝悪逆非道〟とか〝逆賊〟を冠されて教えられた赤松氏であったが、戦後の民主主義時代に移ると歴史観も大きく変化し、中世の歴史も南北朝廷併立時代として見直された結果、赤…

(二)

http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050131(からの続き) 八瀬 久 (3)系図造り 現在各家に伝わっている系図の多くは、天正年間(一六○○年頃)から元禄時代(一七○○年頃)にかけて作られたと言う。少し回り道になるが、系図造りが発生した時代背景について書…

(三)

http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050122(からの続き) 八瀬 久 前回の概況を書いて置きたい。 赤松氏の発生から円心に至った経緯を述べた上で、赤松氏が擡頭して、元弘の乱での抜群の働きがあったものの、建武中興の論功行賞においては、不当とも言え…

(四)

http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050119(からの続き) 八瀬 久 会員 (7)赤松氏と糟屋・櫛橋氏の拘わり 『加古川市史 (第二巻)』では、次ぎのように書かれている。 「戦国時代の志方城主は櫛橋氏であった。櫛橋氏は相模国大住郡櫛橋郷(神奈川県伊…