(四)

http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050119(からの続き)

                    八瀬 久 会員 

(7)赤松氏と糟屋・櫛橋氏の拘わり
 『加古川市史 (第二巻)』では、次ぎのように書かれている。
「戦国時代の志方城主は櫛橋氏であった。櫛橋氏は相模国大住郡櫛橋郷(神奈川県伊勢原市串橋の一帯)より起った武士で、鎌倉時代に地頭職を得て西遷した御家人である」

 近江国番場宿(滋賀県坂田郡米原町番場)の蓮華寺過去帳の中にも,櫛橋次郎左衛門尉義守の名が出ており、『太平記 (巻九) 』に次郎左衛門尉が六波羅探題北条仲時に殉じ、切腹していることが書かれている。
 また同じく『太平記 (巻三十二) 』には櫛橋三郎左衛門尉が赤松則祐配下の武士である旨が揚げられているが、その名乗りから推測出来ることは、二人が兄弟で、当時では枚挙に暇はないが、敵味方に分れて戦ったことになる。
 播磨の伝承では、櫛橋氏は赤松氏の一族で宇野 (山田) 則景の八男、櫛橋八郎有景の裔となっているが、これは播磨の武士の多くが赤松一族と称している例の一つに過ぎないと述べて、播磨の櫛橋氏は赤松一族にあらずと断定した上で、相模国櫛橋郷から出た櫛橋氏説を取っている。糟屋氏や櫛橋氏が赤松氏と無関係であったなら、何故赤松氏の始祖とされる則景の子供である八郎有景のところで赤松氏と糟屋・櫛橋氏を結び付けたのか?
第四項赤松系図の謎の箇所でも述べたが、敢えて私の独善ながら、家範を山田則景の子供としてドッキングさせ,家範の兄弟とした有景のところで今度は糟屋・櫛橋氏を結び付けたことになる。
 随分と続く系図の中、ただ一点の箇所でのみ何らかの作為を施したとすると、その狙いは一体何か?糟屋・櫛橋氏が関東からの御家人西遷組であるとなれば、赤松氏も同じくその根拠が関東辺りのようにも思えてくるのである。

(8)秦氏系統との比較
 また別の見方をして見たい.皇極天皇三年(六四四)、渡来人氏族の秦河勝が 〝蘇我入鹿の乱〟 を避け、難波浦からうつぼ船(丸木舟)で播磨国坂越浦(兵庫県赤穂市坂越)に漂着し、千種河流域を開拓・開墾したことに始まり、その子孫代々が海岸線を含めて西播磨の奥深くまで浸透して行った。結果、西播磨の各地に秦河勝を祭神とする数多くの大避神社を現在に残している。秦氏はその後,八田,波多、畑,幡等々に分れて行ったが、一族の団結は固く、事に処したから次第にその勢力範囲は四方八方へと広がって行った。
 赤松氏の勢力拡大の図式も秦氏のそれと酷似しているのだ。家範が赤松を称した後,三代の間は鳴かず飛ばずであったが、五代目の則村に至り急激にその勢力を伸長している。まず、同地方の産物である鉄=千種鉄=や三方桧を取り込むと、千種川揖保川筋を掌握、河口である千種川の坂越浦や揖保川の室生ノ泊、更に矢野庄(相生市)の那波浦を握るために坂越城(赤穂市坂越)、室山城(揖保郡御津町)、大島山城(相生市那波)を築き、輸送ルートを確立して西播磨の経済を一手に握った。その上、有り余る資金力を駆使して各地の豪族や名族と義子制度や婚姻で一族一門を拡張して行ったのである。
 それでもまだまだ弱小の赤松党に過ぎなかった。こんな中で後醍醐天皇による倒幕運動に加担して決起した後、各地からの応援を得て播磨から摂津を席巻しつつ、いち早く京都に攻め上り,他に抜きん出た貢献を果たしたものの、何故か当時の謎とされる後醍醐天皇からのいびりを受けた後、左遷されたことで意を決した則村は,遂に足利尊氏に与し、やがては天皇を退位吉野に隠棲へと追いやった結果、逆賊の汚名を冠されたのであった。
弱小軍団であった赤松氏が,忽ちの内に他を圧倒するに足る軍団として編成できた蔭には、西播磨各地点在していた(川筋を根拠とする)秦氏系統を結集することが出来たからこそ可能になったものであり、こう考えて来ると、赤松氏自体が秦氏係累ではなかったかと思わずにはいられない。
 現に、西播磨郷土史として著名な某先生もこの説を唱えておられる所以であり,尤もと頷ける次第である。
赤松氏については、この地にも 〝何処から来たのか?〟 と言う疑問を唱える人があり、「赤松氏が播磨偏狭の地から上洛したことにしては,度重なる京都の合戦で余りにも鮮やかな戦い振りを示したものだ」と京都出身説を唱える人々もいる。
 赤松氏の急激な発展は、則村の類い希な経済の才と先見性・独創性そして秀でた統率力が寄与したことは当然ながら、それにしても余りにも早いのには、
「則村の時に急成長したのには、誰か陰のスポンサーがいた?」
と考えたくなるのは私一人だろうか。

 私は最近の調査で,法雲寺の石段下正面に千種氏の墓地を知った。赤松氏が全盛期であったにも拘わらず、菩提寺 (法雲寺) の正面階段真下にそれが存在するが、何故排除する等の手を付けなかったのか?無言で何かを暗示しているように感じられる。赤松氏が遠慮しなければならない位の恩恵を過去に受けていたと言うような、両氏には余程密接な関係が存在しているように考えられてならない。
 千種氏については、嘉永年間か安政年間の頃までは横山氏を称し、赤松円心菩提寺である法雲寺の太夫職を代々勤めていた家柄である。
横山千軒屋敷 (赤穂郡上郡町横山) に邸を有し、苔縄 (上郡町苔縄=法雲寺のある所)に二千三百石の領地があったとか。嘉永年間に有栖川宮慈性法親王から君命によって千種姓を拝領し以後改姓したと言われている。
 兵庫歴史研究会の機関紙《ひろば》でも触れたが、私は目下この件の解明のために準備を始めた所である。その外、赤松氏については、まだまだ不明の事柄が多く,開明して行く必要のある諸問題が山積しているが、今のところ赤松氏研究を手掛ける学究の士が現れる気配がないのは誠に残念でならない。
 赤松氏の謎の部分が貴方の参入を待っているのだ!
http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050310 (つづく)