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                           阪本信子

 平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」という冒頭の部分は、多くの人が暗誦している名文で、暗誦と言う形でこれほど愛されている作品は余り多くはないでしょう。
 枕草子の「春は曙ようよう白くなり行く山際すこしあかりて」、源氏物語の「いずれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたる中に」とならんでベスト3に入るものです。
 そして人々に好まれた最大の理由は、平家という大氏族が本当に「忽然」と亡んだという筋書きであり、これを琵琶法師が全国に語ってまわった台本が平家物語です。
 琵琶法師がこれを語り始めた頃は、壇ノ浦から約三十年ほど後ではないかと推察されますが、そうであれば平家繁栄、没落を眼の辺に見た人、平家に関わりのある人も生存しているでしょうし、また父や祖父から体験話や風聞を聞かされた人もいて、全国規模の知名度を誇るドキュメントドラマでした。このようにヒット間違いなしの下地が熟成されていたのです。
 他の古典が文字を読むことから広まったのに対し、平家物語は口で語るところから広まりました。琵琶法師は聴衆の反応を確かめながら、街角、神社、市場、寺、邸において、あるときは勇壮な合戦話、またあるときは仏教説話を、ある時は悲恋物語など、時に応じ聴衆、地域のニーズにあわせて演目を選び語りました。
 後には琵琶の台本としての「語り本」以外に、読むための「読み本」も書かれました。
面白いことに、当時の文字を読める人は限られており、そういう人たちの多くは琵琶法師の語りを聞きたくなり、聞かずには満足できなかったという記録が残されています。
 源氏物語などの王朝文学は、これを読む為にはある程度の知識教養を必要とするために、限られた階層が享受者でした。従って一人で部屋にこもって読むか、宮廷サロンで大勢の人が集まり、一人が読み上げ、できれば絵巻などを囲んで楽しむというやり方で、人数にすると僅かなものでした。
 これに対し平家物語は、日本列島さいはての離島にまで琵琶法師が語り歩いていたという記録もあり、身分の上下を問わない享受者の多さは、比べることは出来ません。
 このように、ケースバイケースで台本が作られ、脚色されたため、平家物語はあるときは王朝文学、軍記文学、歴史文学、仏教文学という多くの顔をもつ作品となったのです。
http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050124(へつづく)