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義経の実像 一の谷合戦における鵯越の逆落し(2)三草山より宿原へ
                                   梅村伸雄


 2月4日の早朝、未だ暗い都を千騎ほどの騎馬武者と共に出立した義経一行は、集合地と決めた現在の住山字ツドイに集結、搦め手の軍勢三千数百騎となって小野原に向かった。
 小野原から三草山の麓山口に留まった資盛の陣までは、『源平盛衰記』に記されているとおり、篝火換わりに民家を焼いたのは間違いない。なにしろ4日夕刻の月は早々と山陰に姿を隠し、後続の者どもに道を誤まらせる危険が生じたため、やむを得ぬ仕儀であった。
 三草山の合戦は、義経の郎党が漏らした偽報を真に受けた平家が、源氏を打ち砕くのに充分、と思って配備した軍勢が源氏の軍勢より少なかったことと、4日は平相国の三回忌で戦いをしないと言う情報から、戦は翌日と決め込み、鋭気を養うために休んでいた真夜中、5日に入ったばかりと言う時刻に平家は襲われた。
 不意を突かれた平家は、思いっきり恐怖心を叩き込まれ、義経が囲みの一端を開けていた闇の中を一目散、加古川沿いに高砂方面に逃げ去った。これを襲う義経勢も20里という二日路を一気に走破した後の合戦になったので、山口の南西1里にある木梨まで追ったが、それ以上は体力の限界とばかり、用心にと白旗を無数に掲げて休んだ。
 後に「百旗立」と呼ばれる土地であるが、この時、泥のように眠り込んでいる武者たちの、寝首を掻きに戻ってくる平家の武者が一人もおらなかったのは、義経にとっては幸いであった。
 翌5日の午後、出立した義経の足取りが幾通も考えられているが、義経が隠密裏に鵯越に向かうのが目的と考えるならば、姿を隠すのは敵に警戒心を起こさせる最大の愚策であって、姿を隠すまでの義経の行動は常に堂々とあるべきであり、義経一行は木梨・社から小野を通って三木に至るまでは、人目につく丹波路を通っていたと推測するのが妥当と考えられ、その道筋に当たる小野・樫山・三木には、義経にまつわるいくつかの伝承が残されている。
 後に「百旗立」と名付けられた木梨を出立したのが5日の午後、丹波路を辿って小野を過ぎると、夕餉近くには樫山村に辿り着く。ここでは土地のお婆さんにハッタイ粉と呼ぶ焼米の粉を馳走され、のちに粉喰坂という地名がつけられたが、ここからは樫村の五郎左衛門に山田村までの道案内をさせた(『市場村誌』)。史跡=小野市樫山町に国位田の碑・義経の腰掛岩・粉食坂・亀井の水あり。
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『市場村誌』延享四年(一七四七)黒印状「御赦免地帳」を樫村の五郎左衛門に与えられる。田地六畝歩「字黒印かち」この由来は、源義経公三草山より一ノ谷へ向かわれた際、当村の五郎左エ門の先祖が道筋を案内し、御褒美として五郎左エ門の屋敷地に御赦免の黒印状を賜る。それより田地字を「黒印が地」と申し、地頭代々より御除地とされる。
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樫村から三木に行くには大きな美■川が横たわっていたが、川が大きく蛇行している宿原
↓↓↓↓↓↓↓『昔、橋がかかっていたと言われる地点』↓↓↓↓↓↓↓

近くは川が浅く渡河しやすい場所であり、義経一行の渡河を物語るのか弁慶の足跡と呼ばれる石が残されている。
渡河した一行は、明石道と湯ノ山道との分岐点宿原で一夜を過ごすが、木梨からは5里(20キロ)の道のり、敵にも遭遇せずゆっくりと休息ができた。
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