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義経の実像 一の谷合戦における鵯越の逆落し(4)一の谷城
                                梅村伸雄

 さて、平家が築いた難攻不落な一の谷城とは、何処にあって、どのような城であったのだろうか。
 『吾妻鏡』『平家物語百二十句』では、「一の谷の後ろ、摂津の国と播摩との境なる鵯越」と記しているが、これを逆説的に言えば、鵯越の前面、即ち兵庫の地に一の谷があると伝えている。因みに、鎌倉仏教の開祖一遍の『一遍上人縁起』には、正安四年(1302)津の国兵庫島へ着いた時の兵庫の情景が記され、そこには「銭塘(銭塘江と西湖)三千の宿、眼の前に見る如く、范麗五湖(太湖)の泊、心の中におもい知らる」と語り、鵯越の麓には大きく美しい湖があったと伝えているが、これこそ大きさと美しさで「一の谷」の名をつけられた湖である。
 この湖は、湊川の一部であって、天王谷川

と烏原川が清盛の雪御所の南で合流して湊川になり、大開の辺りから大きな湖を形成、真光寺の南辺りからまた狭い湊川となって和田岬の内懐より海に出る「一の谷は口は狭くて奥広し」と言われた湊川のことであった。
 『延慶本平家物語』には、「山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等ことごとく従え、軍兵十万余騎に及べり。木曽打たれぬと聞こえければ、平家は讃岐屋島を漕ぎ出でつつ、摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける。去んぬる正月より、ここは屈強の城なりとて、城郭を構えて、先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり、一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり」(『長門本』もほぼ同じ)、と記されている。
ここで注意したいのが後陣の所在であり、室・高砂・明石と記されれば、現在の室津高砂・明石と解釈しがちであるが、後陣といえば先陣と本陣の間にあって、本陣の周囲を固める役を担っている。そこで昔の地名を探ってみると、高砂は山の手の陣であり、室・明石は大輪田泊を守る位置にある。つまり平家の本陣は大輪田泊に囲まれた、平家の菩提寺八棟寺のある経が島であり、総大将宗盛をはじめとする平家の面々が集い、二重三重に本陣を守らせ、『歴代皇紀』に「平家悉く西国の軍勢を発し、福原以南、播磨の室並びに一谷辺に群居す。一谷を以て其の城と為す。重々の堀・池等、以外其勢六万騎と云々」とあるように、一の谷の大きな水面を城郭の一部にしていたのであった。
 須磨に西木戸があって西木戸の大将平忠度が居たという説を称える方がいるが、どの文献も忠度を西木戸の大将とは記さず、丹波と播磨の国境、三草山に布陣した資盛と同じ様に、源氏の搦め手の進撃を阻止する西の手の大将としている。
 さて平家は、先に記した「難波一の谷に布陣した平家の陣容」の通りの城を築き万全の構えを見せたが、この情報を都で得た義経は、城内に忍び込める唯一の鹿道を教えられ、その鹿道を利用する戦略を編み出した。
 ただその戦略を遂行するのには大きな問題があった。それは鹿道と平家が布陣する馬の背とは僅か2〜300mの距離であり、鹿道

西神戸有料道路(神戸―三木線)の最初のトンネル上に逆落しの崖がある。』

となる崖は落差40m、勾配の急なところは35度である。この急坂を下る時には防御の態勢が取れないため、敵に発見され矢を射掛けられたら馬もろともに武者たちは崖の下に転落するのであり、忽ちのうちに義経の戦略は潰える大きな危険を孕んでいた。
 そこで敵の目を逸らせるための方策として土肥・田代の軍勢に山の手攻撃を命じ、鷲尾の倅に仮城造りを命じたのであった。
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