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義経の実像 一の谷合戦における鵯越の逆落し(3) 義経の攻撃目標
                                  梅村伸雄

 翌6日の早朝、義経はここ丹波路より軍勢を二手に分けた(『平家物語・竹柏園本・その他の諸本』)。『延慶本』には「其勢七千余騎は義経に付け、残三千余騎は土肥次郎田代冠者。両人大将軍として山の手を破り給へ、我身は三草山をめぐりて鵯越へ可向とて歩せけり」とあって、この文面は特に重要であるが、義経の率いた軍勢七千余騎は七百余騎に訂正をしたい。
 つまり、他の平家物語義経三千、土肥七千となっており、土肥の軍勢のほうが圧倒的に多く、その後の義経の隠密行動と陽動作戦を考えると、七百余騎が妥当の数字かと思われる。さてこの文面には、義経の攻撃目標がはっきりと記載されている。土肥実平に命じた攻撃目標は山の手の陣であり、義経の攻撃目標も山の手の最も明眸の効く三草山であって、山の手の大将教経が陣を布く山の手を、土肥の軍勢は麓から攻撃、義経の軍勢は鵯越から攻撃して、両軍で挟撃しようと告げている。

 三草山については、5日早朝に攻撃した丹波と播磨の国境にある三草山が頭から離れない方がいるが、平家物語を熟読し他の文献をも参照すると、山の手にも三草山があることが判る。
 その一例を挙げるならば、義経の山の手攻撃に備えて教経が山の手に陣を布くが、その時の様子を「程無く三草山へ駆付て越中前司盛俊が陣の前に仮屋を打て待係たり」と認め、鹿松峠に陣を布いた盛俊の向かい、即ち水道局が大きな水タンクを築いた頓田山が三草山であることを伝えている。つまり、先の文面の意味は、「我が身は、三草山を駆け巡るので鵯越に向かうと申して兵を歩ませた」と解釈すべきである。
 六日の早朝、義経は土肥らに大半の軍勢を譲ったが、この時点から土肥と田代は義経の影武者となって平家の物見の目を一手に惹きつけ、堂々と明石道に沿って明石から平家の西の手に向かった。一方の義経らは、鵯越に向かうために播磨の大地に姿を隠したのである。

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