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義経の実像 一の谷合戦における鵯越の逆落し(1)    梅村伸雄
はじめに
 平成13〜15年にかけて「日本経済新聞」に載った『平家』は、義経が一番誇りとした一の谷合戦を、神戸の地形を無視したため、飛んでもない噴飯物に仕立てている。
 また、明年NHK大河ドラマ義経』の原作となった宮尾登美子氏の『平家物語』は、語り物系の『平家物語』に添って書かれたが、語り物系には大きな誤りが潜んでいるため、これまた一の谷合戦について大きな誤りを犯している。
 そもそも今日の有識者たちは、須磨にある一の谷を逆落しの場所と考えているが、須磨に一の谷の名がつけられたのは江戸時代のこと、義経が逆落しをしたのは鵯越の麓にある大きな谷、それも美しさと湖の大きさでは摂播両国で一番であるために「一の谷」と名付けられ、「難波一谷」とも呼ばれる湖が、一の谷合戦の舞台である。
 平家の総大将宗盛は、湊川の一部である一の谷と生田川を先陣として福原に陣を布き、経が島を本陣とする一の谷城にいたのであり、安徳天皇三種の神器を擁した御座船も経が島の内懐にある大輪田泊に泊っていた。
 如何なる理由で義経大輪田泊の攻撃を外し、8キロ西の須磨に向かったと言うのか、この矛盾に満ちた神戸の歴史を検証しつつ、一の谷合戦の実像を、残された資料に基づいて語ってみたい。

一、情報戦
 義経が義仲を討ち取って感状を戴き、再び院の御所に呼ばれたのは義仲によって官位を剥奪された公卿たちの復官を含む除目が行われ、その後、鎌倉勢と平家勢とを和睦させるか対決させるか、戦の勝算を打診された時のことであった。
 勿論、義経は戦を強く望んだが、特に勝算があってのことではなかった。そこで戦をするためには、平家の陣容と地勢などの情報が必要であることを訴えたところ、院より参議の久我道親卿を訪ねるようにとのお言葉を給わり、道親卿を訪ねると、卿の甥といわれる久我興延氏(白川鷲尾家『系図』記載)を紹介された。
 彼は「斧の柄の妾」と渾名を持つ男であり、仁徳天皇の弟君、額田大中彦皇子の血を受け継ぐ家柄で、斧の柄が朽ちるほど遠い昔、貴い方の妾であったところから「斧の柄の妾(『延慶本』)」と呼ばれているのだが、道親卿の父久我雅通卿に御奉公する祖母と若き日の雅通卿との間に子が生まれ、その子(鵯越の翁)を父とするのが興延氏であった。
 彼の実家は鵯越の麓にある白川であり、鵯越は彼の狩場であって、平家の山手の陣に下る道を彼は知っていた。つまり、義経鵯越の翁との出会いは鵯越であると『平家物語』に書かれているが、実は京都で翁の倅に会い、「鹿の通程の道、馬の通わぬ事あるべからず(『延慶本』)」と義経が言ったのは、実は都での話であり、義経がいくら強運の男とは言っても、偶然を期待して戦略を立てたと考えるのは誤りである。
 道親卿が己の名を『平家物語』に載せることを固辞したのは、義経と兄頼朝との確執を特に気にしていたからである。
 平家を攻める唯一の鹿道、これを有効に利用するために義経と郎党たちは知恵を絞りに絞った挙句、唯一の勝算の目論見を見出し、それを遂行するために久我興延氏に二つの手配をお願いした。


 一つは白川の南山(現在、白川台五丁目にある城が丘中央公園、昔は海抜231メートルの峻峰)に仮城を築くことであり、今一つは鵯越の道案内であった(白川鷲尾家『系図』記載)。
 また、この作戦遂行のためには、平家が一の谷城から出て都に向かわぬよう、足止めをして欲しいと院にお願いを致し、「和睦の計らいがあるので、きたる八日に京を出発し、院の御使としてそちらへ下向する。関東の武士どもへはそれまで乱暴せぬように申しつけてあるから、平氏の方でもそう心得てみだりに軍を動かさないでほしい」と、修理権大夫気付の書状を総大将宗盛に送ってもらった。
 その他にも、鎌倉勢は戦意を失っているとか、残っている軍勢は僅かであるとか(『玉葉』)、義経の郎党たちは巷に出てはあらぬ噂を流した。
一方義経は、丹波の豪族長澤六郎遠種(『丹波風土式』元暦年中、遠種の娘が源義経の子を生む)の手引きを頼りに、鎌倉勢を三々五々丹波の地に潜入させていた。
http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050118 (へつづく)

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