(六)

義経の実像 一の谷合戦における鵯越の逆落し
                                     梅村伸雄 会員
鵯越での出来事
 『歴代皇紀』『一代要記』には福原の南に一の谷があると記されているが、鵯越から見下ろした和田岬は丁度福原の南に当たる。その和田岬に輝く灯炉堂の明かりを指差しながら多賀菅六久利は、「火の見候も播磨摂津二ヶ国の堺両国の内には第一の谷にて候間一の谷と申候なり(『延慶本』)」と義経に告げ、平家の陣容を伝えた。
 鵯越山頂に不敵な笑い声を残して兵の屯する平地に戻ると、枝ノ源三が翁と二人の子供を連れて来た(『延慶本』)。
 都において久我興延に道案内を頼んでおいた興延の父親である。早速、最近の平家の陣容と逆落しの崖の様子を聞き、山岳地帯を馬場とする伊豆や三浦の馬達者70余騎を選び、残りの武者たちへは明朝行う合戦の役割を命じた。
 つまり岡崎四郎の手勢五〇〇余騎は、土肥・田代の軍勢が山の手攻撃に失敗した時の用心にと、同じ山の手の攻撃であり、多田行綱の手勢一〇〇余騎には、久我興延に仮城造りを頼み畠山重忠に補佐を命じた(白川村『藤田文書』)城、その城を後構えとする高取山北(鹿松峠)の攻撃であった。
 七日早朝、逆落しの手勢に参加できなかった熊谷直実は口惜しく、このままでは手柄を立てることができないので先駆けの栄誉を得ようと、翁を道案内人として抜け駆けを目論んだ。
 倅の小次郎直家と郎党をたたき起こし、出かけようと木立を抜け出たところ義経の見回りに咎められた。なにしろ一行の隠密行動が一人の脱走者から敵に洩れないとも限らないので、用心のための見回りであり、見咎められた直実は一瞬千本の槍を突きつけられたような恐怖感に捕われた。しかし強かな直 実は、「君のお出ましと承り、お供せんと待っておりました」と見事に危機を逃れ、義経の姿が闇に消えると、翁を脅しながら白川を通って西木戸への道をたどった。
 翁が姿を隠した情景は、翁が鹿道は危険であると義経に進言した後「かきけつようにうせにけり、いとど心細そ思されける(『延慶本』)」とあって、翁の姿が見えなくなったことが、義経の大きな不安になったと記される

が、鵯越から直実、岡崎四郎義実(『四部合戦状本』)、義経と言う、三つのグループに分けて戦場に向かったとすれば、岡崎四郎のグループを案内したのが久我の「久」と義経の「経」を戴き、鷲尾四郎経久と名づけられた12歳の一法師、義経のグループを案内したのが同じく「久」と「義」を戴き鷲尾三郎義久と名づけられた14歳の三男熊王であり、残る直実の案内者は翁と言うことになるが、直実は翁を連れ去ったことは一切口外せず、平家物語にも記されてはいない。(つづく)