(五)

http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050125 からの続き
義経の実像 一の谷合戦における鵯越の逆落し
                          梅村伸雄 会員
一 の 谷
 世間では、須磨に一の谷と名付けられた地名があるため、須磨の地を「一の谷合戦」の主戦場と考えているが、八百年前に須磨に一の谷が在った、と記す文献は皆無である。
 合戦当時、一の谷の所在を示す文献『吾妻鏡』と『平家物語百二十句』は、一の谷の後山が鵯越であると記しているが、これは逆に鵯越の前面、つまり兵庫から和田岬にかけて一の谷があったことを示唆している。
 また、『歴代皇紀』は、「平家悉く西国の軍勢を発し、福原以南、播磨・室並びに一谷辺に群居す」と記し、福原の南、つまり和田岬の辺りに一の谷があると教え、『延慶本』でも「火の見候も、播摩摂津二ヶ国の堺、両国の内には第一の谷にて候間、一の谷と申候なり」と、鵯越の山頂から見下ろした和田岬の情景の中に、一の谷があると伝えている。
 同様『築嶋伝』でも、「一の谷が荒磯なので経が嶋を築いた」と一の谷を和田岬周辺と断定し、『源平盛衰記』では、「湖水漫々」と言う表現で、福原に湖があったと伝えている。このように当時を語る六つの文献の全ては、和田岬から兵庫にかけて一の谷があったと伝えている。

 写真は鵯越と呼ばれた尾根の前面、和田岬から兵庫駅付近の情景を写したものだが、ここにはコンクリートの町並みがあるだけで、湖の気配さえ窺われない。では、鵯越の前面に湖などなかったのではないか、と言えば、そうでもないようである。
 鎌倉仏教の一人である一遍上人の絵巻は、当時の風俗・地勢を語る貴重な文献とされているが、『一遍上人縁起』でも、貴重な資料を提供している。そこには、
 正安四年(一三〇二)津国兵庫島へ着給、沙村重りて街を並べ、河海堪へて派を堺す、銭塘(銭塘江と西湖)三千の宿、眼の前に見る如く、范麗五湖(太湖)の泊、心の中におもい知らる。と記し、兵庫には西湖や太湖のような湖のある風景が展開していると述べ、湖の所在を告げている。

 銭塘三千の宿がある西湖の情景、この湖は、足利二代将軍義詮の『住吉詣』や『源氏物語』の「明石」「澪標」の項にも記される湖で、『扶桑名所詩集』に載る「赤石八景の詩竝に序(一六六九)」に、その素晴らしさが語られている。

 南海の瀟湘(洞庭湖)を有し、浙江の西湖に有るが如しなり。湘なり。湖なり。古来、詩賦(和歌・漢詩)文章(源氏物語)牘を重ね、堆を成す。然ども、恐らくはその美を描し盡すこと能はずや。と筆舌に尽くし難いほど、美しい川と湖であると記し、この川と湖が「一谷は口は狭て奥広し」と表現され、「播摩摂津二ヶ国の堺、両国の内には第一の谷にて候間、一の谷と申候なり」と、美しさと大きさにおいて一番優れているために、「一の谷」と名付けられた湖であることを語っている。
 瀟湘と呼ばれた洞庭湖の情景 因みに、赤石(明石)とは、兵庫の地名で、播磨には明石の地名が二ヶ所あったことが「赤石八景の詩」の「後書き」に記載され、『源氏物語』の舞台は兵庫の明石であると明記されている。

 その湖の一片が『一遍上人絵巻』に載っている。この舟引きの絵は、一遍上人が兵庫に向かう時の絵であるが、行き先が行き詰まりとなる湖の情景であり、前面の人が歩いている道は会下山の麓の道で、現在の兵庫区役所や湊川公園に向かう道と考えられる。
 この大きな湖は、「有百頃泊 岐州有荷池泊、今案播磨国大輪田泊此類也」と記された、いにしえの大輪田泊のことであり、百ヘクタール程もあって、「浜清み 浦うるはしみ 神代より 千舟の泊つる 大和太の浜」と詠まれていた。
 (つづく)