(四)

http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050113 からの続き
義経の実像 一の谷合戦における鵯越の逆落し
                          梅村伸雄
極秘裏に鵯越に向かう義経一行
 宿原で土肥・田代の軍勢を見送った義経一行、次に現れたのは宿原の西7Km、山田川播州平野に現れる三津田(三木市)である。
 ここには空腹の義経に大鉢山盛りの麦飯を献上した、と言う伝承が残され、土地の者によって建てられた判官神社は、今でも大切に祀られている。

 この三津田で朝食を取ったであろう一行が、山田川に沿って山田の里に向かうのであるが、山田川の落ち口({どんとかん}呑土澗)に来た時、戸惑いから立ち止まったため

に「駒止め」と呼ばれ、続いて道に迷う平家物語「老馬のこと」に続く。
 此処のところを私なりに解釈するならば、山田川の両岸は高く、敵に発見された時には隠れ様も無い場所であり、清盛健在な時には二千の僧兵が守っていた所なので、万が一、平家が三草の陣のような陣を構えていたならば合戦は避けられないばかりか、一人でも敵兵を逃した時には、義経の奇襲作戦の意図が見抜かれ、鵯越に陣を布かれて義経の目的が達せられない危険が大いにあった。
 そこで丹生山の裏道を辿ることにしたと思われるが、途中から道に迷い「何の谷へ落て何の峯へ越へしともしらざりければ」と言う二進も三進も行かない状態になった。この時、武野の国の住人別府小太郎清重という若者が、父親から聞いた道に迷った時の策を義経に告げた。
 結果は、手綱を任された老馬が一行を案内するのであるが、その道筋を至極簡単に「登れば、白雪晧々として聳え、下れば、青山峨々として岸高し」と記している。この僅かな資料で一行の道筋を特定するのはおこがましいのであるが、三津田と山田の間で「白雪晧々として聳え」と表現できる山が一つある。

 それは鵯越につながるシビレ山であるが、この山には元々義経道と呼ばれた道があって、道の中程には六甲連山の青く峨々とした峰を望む場所がある上に、その地点が中腹であるため「岸高し」の表現がピッタリ当てはまるので、
 義経一行の隠密行動の道筋を窺わせていると思われる。

 丹生山を下り山田川を過ぎ、鵯越に向かう藍那古道の入口には、山田の鷲尾が待ち受け、ここから生年17歳の武久が鵯越まで嚮導することになる。
 山田の鷲尾の先祖は「桓武天皇の皇子葛原親王七代の後胤安濃津三郎より出ず」(『山田村郷土誌』)とあって、山田ではかなりな郷士であった。ただ現在は、灯篭一つを残すのみで、往昔の面影を残す唯一のものは裏山に残された墓石のみである。恐らく、白川の鷲尾からの連絡を受けて鵯越の道案内を頼まれたのであろう、夕刻の藍那古道を案内したのが山田の鷲尾で、「ころ比は{きさらぎ}如月の六日の事なれば、宵ながら傾く月を打守り四方をただして行ほどに、青山は苔深して残の雪は始花かとあやまたれ、岩間の水溶けざれば細谷川瀬をとだへず、白雲高く聳へて下むとすれば谷深し、深山道絶えて杉の雪まも消やらず岸の細道幽也、木々の梢も滋ければ友迷わせる所もあり、只こと問者とては遠山に叫ぶ猿の音、谷鶯声なければ、

 また冬かと疑わる、松根に依て腰をすらねども千年の翠手に満てり、梅花を折て頭にささねども二月の雪衣に落、月も高嶺に隠ぬれば山深して道見へず、心計は逸れども、夢に道行心地して、馬に任て打程に、敵の城の後なる鵯越を上りにける」と、藍那古道の情景を見事に伝えながら鵯越に到着した一行、松の根方に馬を繋ぎ鵯越の最高峰高尾山山頂に立った。

 見下ろした眼下には無数の灯火が広がり、怪しく輝きながら義経一行の無謀ともいえる戦略を嘲笑っていた。
 ところが義経は、万灯会のような不気味な火の大群を見下ろしながら、渚の篝火を海人の苫屋の藻塩火と見てか突然笑い出し、感に堪えぬように「兵杖の具足をば態ととらせぬそよ」と独り言を言った。
 つまり義経は、平家が展開した火の海を、海人が藻塩を焼いている火だと解釈をして、甲冑に身を固めて逢いに行くのは武骨である、甲冑を外して逢いに行こうではないか、と笑ったのである。

 火の傍らには藻塩を焼く娘が大勢いるのであり、和田岬周辺は難波潟と言われ、多くの和歌に海女と藻塩火が詠われた舞台である。
 義経はそのことを知ってか、緊張の坩堝の中にいる武者たちに笑いかけたのであり、ここ高尾山山頂は、義経の度胸と和歌に秀でた姿を覗き見ることの出来る、貴重な史跡ではないだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050302 (へつづく)