(三)

http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050122(からの続き)
                          八瀬 久
 前回の概況を書いて置きたい。
 赤松氏の発生から円心に至った経緯を述べた上で、赤松氏が擡頭して、元弘の乱での抜群の働きがあったものの、建武中興の論功行賞においては、不当とも言える差別を受けた。その原因が家系に起因すると考えた円心は、悩み苦しんだ末に選んだ道が、足利尊氏との連携だった。結果は播磨・摂津・備前三ケ国の守護大名へと飛躍したのである。
 天正から元禄にかけての時代に系図作りの職業が派生したが、そこに至った経緯と赤松氏の状況を比較しながら、赤松氏の系図が形作られていったであろう点を私なりに推測し、そして核心部分であるところの赤松系図にスポットを当てて見たと言うことだ。
そこで今回は多角的に検証をしてみたいと思う。

(5)検証
 今は亡くなられたが、神戸市北区に住んでおられた杜山悠先生が、秋田書店発行の月刊誌《歴史と旅》の特集号「地名と苗字」の中に投稿しておられるので此処に揚げて見たい。
『赤松氏族と播磨の地名』の中で、具平親王七代の後裔、源師季が近江守の時、作用庄に配流されたが、この人が赤松氏の祖と言うと記されている。
系図纂要》=第九冊上の村上源氏の項二○四=に揚げてあるが、
具平親王―源師季―季房(季方)―季則―頼則(頼範)―則景―家範
 杜山説によると、師季が近江守になったのが建仁三年(一二○三)四月、同年十月止任と言われている。
 一方、子とされている季房は、永長元年(一○九六)生まれ、又、家範は承安四年(一一七四)に生まれて、嘉禄二年(一二二六)死亡と書かれている。
 これらを総合すると師季の子に季房を充てることは出来ず、師季と家範は同時代の人となってしまうのである。
 何とも腑に落ちない話となってしまった。
更に先生はその本の中で、こんなことも書いておられる。
「頼則(頼範)が保元三年(一一五八)播磨守となり任地の播磨に下った。解任跡も白旗城に在って、その孫家範に至り赤松を称したとする説もあるが、この説にも無理がある。
 播磨守は保元三年八月まで平清盛、その後は藤原成範が平治元年(一一五九)十二月迄任ぜられているから、頼則がこの年播磨守に補任されることはなかった筈である。
 その後で面白い見解を述べられているので付記したい。
「頼則(頼範)に関して、平治の乱の後、播磨守では無いが、平治元年十二月十日付で摂津守になった人に頼憲がある。字は異なるが、頼則=頼範=頼憲、これら何れもが「よりのり」と読めるので、若しも同一人物と言うことになると、赤松系図も変わる」《系図纂要》=多田系図=によると、多田蔵人源頼憲であり、その後平治の乱の時、平清盛に斬首されているが、頼憲は清和源氏だから赤松氏の村上源氏の線は消滅してしまうと言うことである。
杜山氏は猪突としても、未だまだ未開の部分が多い赤松系図と言えるだろう。

(6)糟屋氏と櫛橋氏
尊卑分脈』=赤松氏略系図=には、
村上天皇具平親王―師房―顕房―雅兼―定房―定忠―師季―季方―季則―頼則―則景―家範―久範―茂則―茂利―則村」

『赤松略譜』では、
「定房、堀川家ヲ嗣グ、コレ赤松氏ノ太祖ナリ。定房ノ子、正三位大納言定忠、其ノ子、従三位左中将師季、然ルニ、師季、播州佐用之庄に配流サレ、一子ヲ生ミ季房ト号ス。其ノ頃。勅免アリ播州ヲ領ス。季房、又、三位侍従ニ任ゼラレル。コレヨリ当家ノ家名、赤松ト号ス」

このように原漢文で書かれており、季房以前については信憑性に乏しいとされている。
『姓氏家系大辞典』=太田亮著=櫛橋氏の条には、次の記載がある。

「播磨(赤松氏族)赤松即景の八男、八郎有景の後裔にして、永禄の頃、播磨志方城(加古川市志方町)主、櫛橋豊後守伊定あり、是れ、黒田長政の外祖父なり。志方(加古川市志方)安楽寺は、永禄中、櫛橋秀則の再興と伝え、また、同所の観音寺城は、天正中、別所氏の一族櫛橋左京亮の城跡と見ゆ」
 更にこんな記述も存在する。
続群書類従(第七輯上)』 に収録されている 『小野系図(横山党系図)』 によると、横山野大夫隆兼の女の注に、
「糟谷権守妻、糟谷小八郎、四宮次郎、櫛橋余一、見四根与三、美波十郎、五人之母也」と掲げられているが、『続群書類従(第六輯下)』 収録の 『 糟谷系図(別本)』 にも、盛久の子に櫛田余一を載せ、この人物を以って糟屋氏庶流である櫛橋氏の始祖と考えられている。
これらを総合すると、糟屋(谷)・ 櫛田(橋)は共に赤松氏の始祖と言うべき赤松(山田)則景から派生した同根の氏族であるように感じられるが・・・       

http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050117(へ続く)