(179) 三草合戦は一の谷敗北のプロローグ

                         阪本信子 会員
 義仲、頼朝が同族相争う間に、平家は瀬戸内制海権を握り、京都まではあと一歩という福原の地にまで進出しておりました。
 頼朝は全勢力を平家討伐へむけ、軍勢を二手に分け、大手の範頼は伊丹、昆陽を経て福原へ、義経は搦め手として丹波路へ向かわせました。
 平家方は丹波路からの敵に対する第一の防衛として三草に布陣しました。
 三草合戦については非常に重要な戦いであるにも関わらず、史料が少なく、なかでも進軍コースは謎に包まれています。
 幸にも多くの伝説が各地に残っており、それを資料として採用せねばならないのですが、広い地域に散らばっていて、バラバラに分かれて進んだとも考えられます。
三草を守るのは重盛の息子、資盛、有盛、師盛の三人で、何れも年若く戦争を知らない世代で、経験も浅く、育ちが良い、ネームバリューはあるが、主流から外れている面々です。
 グッスリ寝ている所を夜襲されて、あっけなく敗走にいたります。
 これは富士川、倶利加羅の戦いと同じパターンで、いくらなんでも歩哨の一人も立てていなかったのか!と疑わしいのですが、負けたのは確かで、もしここで勝っていれば、一の谷合戦も違った結果になっていたかもしれません。
 そんな重要な戦いに、この程度の指揮官しかあてられない平家は、すでに勝利を放棄していると思われても仕方のないことです。 (つづく)