境界争いの歴史的考察(4)

                                中西輝夫 会員
池田家 その4
 池田家の系図と直接関係は有りませんが、一族に関わる話として次のようなことがありますので少し述べて見ます。
 これは大石内蔵助に関わることです。
 小牧長久手で討死した輝政の兄之助の子、由之は幼少のため家督相続が出来ず、輝政に預けられ、その後備前で過ごします。この人の子に備前藩家老を勤めた池田出羽由成 ( 天城三万二千石) がおります。由成は四男八女の子沢山で六女の「くま」は由成の用人垣見蔵人 (千石取り) に育てられ成人。万治元年 (一六五八) 赤穂浅野藩家老大石良欽の子権内良昭に嫁ぎ、翌年長男松之丞良雄 (内蔵助) が生まれます。父の良昭は若死にした為、良雄は十五歳で祖父の養子となり、延宝元年(一六七七) 十九歳の時祖父が死亡 (六十歳) 家督を相続し、城代家老を務めることになる。公儀の仕事としては元禄七年 (一六九四) 備中松山城改易の城受け取に出向き、武名をあげ注目されました。七年後に自身が赤穂城を明け渡すことになろうとは悲運とはいえ誠に切ない話です。
 大石家は大津の出身で、初代は豊臣秀次の側近として仕えた大石久右衛門良信で、淀君に秀頼が生まれたため、主人秀次は高野山に追放となり切腹、致仕し生国江州栗田郡大石村に退転、子供で次男の良勝が常陸笠間の浅野長重に仕え、大阪夏の陣の功績により家老に取り立てられ、代々内蔵助を名乗ります。
 良信、良勝、良欽、良昭、良雄 (主税) と続きます。吉良邸討ち入り前、但馬に返された母の手許に残された三男大三郎は父の顔を知らず、元禄十五年七月五日豊岡で生まれ、一時他家に養子に出されますが、また仙石家に引き取られ、正徳三年十月一日、十二歳の時母りく、姉るりとともに芸州浅野本家の浅野安芸守綱長に父と同じ千五百石で召抱えられ、父の討ち入り仲間、武林唯七の従兄弟、武林半之らに迎えられ広島に入り、子孫は今日に至ります。内蔵助は元禄十六年二月四日細川家で切腹、享年四十五歳。
 浅野家は初代が笠間藩主長重のあと長直が赤穂五万三千石に移封され、長友、長矩と三代続き、元禄十四年勅使饗応役のときに、長矩が松の廊下で吉良上野介に討ちかかり即日切腹、お家断絶取り潰しとなります。弟大学を跡目に願い出ますが却下、家臣は翌年主君の仇を討ち本懐を遂げます。
 内蔵助が江戸に下るとき用いた氏名が池田に関係のある人の名を借り、また由成の一族からいろいろな支援を受けています。
 まず池田は母の実家の苗字で、久右衛門は初代大石良信の名を使い池田久右衛門と称し、江戸へ着いてからは垣見五郎兵衛といい、主税を垣見左内としたのは、岡山天城の母の養父垣見の名をかり、五郎兵衛は母くまの兄由有の名前です。後世の芝居は江戸くだりで面白くかかれ、日野家の用人などとしていますが、これは戯作者の嘘で、目立たぬ様ひっそりと人目につかぬよう下向し、この費用も由成の弟由英の子で、山科にいた三尾豁正長の支援を受けています。
 討ち入り前、吉良上野介在宅を確かめる為、大変苦労をしていますが、茶会の正確な日時は、伏見稲荷神社の社家羽倉斎こと荷田春満に情報をもらっています。
 討ち入り後、預けられた細川家に内蔵助が提出した親族書には由之の弟元信の孫信起、信義、信明また由成の娘(くまの女兄弟)の嫁ぎ先の池田一族、母の弟由孝の子、従兄弟になる玄蕃由勝、そのほか輝政の子政虎の孫七郎兵衛政陽などが記されています。
 池田輝政は関が原の合戦の後、徳川家康から美濃も含め望みの国で所望があれば申せといわれた時、家の子や家老は勝手知ったる旧領の美濃一国を貰うよう勧めましたが、伊木豊後一人反対、なぜならば過去の兵乱は京をめざすにより東西濃州、尾州などに戦乱多く、末代においては関東に制せらるるところあり。播州、越前は大大上の国にて、天下兵乱に及ぶも西に備前、南に淡路あり永世基業を起すべき地は播州にしかずとて衆議一決、秀吉に倣って播磨を貰うことになった。「諺に播州は日照りでも不作なし溜池も多く、人間もおとなしい、人を立てる気風があるともいったとか」それで吉田を捨て播磨へ国替えを申し出て許可されました。
 楠氏の末裔池田一族が因幡伯耆備前三ケ国で合計七十三万五千石を受け継ぎ、太守として末代まで続くのは祖先の陰徳のおかげと養徳院の子供達の仕付けと処世、戦国時代の信長、秀吉、家康三代に仕えたときの生き様が、主人に対し良い結果を齎したことが後世に続く家をなしたといわれる、加賀百万石の前田家の妻「おまつ」も家の守りに一生をかけた女性であった。(つづく)