尼崎の歴史 ぶらり報告
五月十四日 (土) 午後一時阪神尼崎駅前から出発したのは総勢三十七人で、天気は良いし、寒くもなく、暑くもなく散歩日和を楽しみました。
 歩き出してすぐ、目の前に出現した尼崎城の石垣、ここでの会長による尼崎の歴史説明は室町時代の細川家相続を巡る三者による争いからはじまります。
 支配者はその後荒木村重に、ついで豊臣秀次の代官建部高光となります。
 建部家は関が原の合戦で家康方につき、大坂落城後は一万石をもって大名の座に列せられたが、当主政長は年少の故をもって播磨林田へ転封、替わって戸田家が入封した。戸田氏鉄は尼崎城を拡張、修築し城下町としての原型が出来上がった。そして、戸田氏鉄による18年の治世の後、青山家に替わり次の松平 (桜井) 氏のとき明治維新となる。
 その松平桜井氏の始祖信定を祭神とする桜井神社が最初の訪問先で、宮司の説明つきです。明治15年に旧藩士の有志によって建立されたこの神社には、西南戦争のとき私財を投じて6ケ月にわたり鹿児島で医療活動を行い、日本赤十字社誕生のきっかけを作った最後の藩主忠興公の記念碑があり、また尼崎藩士を父に持つ国学者契沖の誕生の地でもある所から学問の神様とされています。
次は寺町の中でも一番の威容を誇る本興寺ですが、尼崎の寺院、神社などは元和の一国一城令に伴う新尼崎築城と城下町整備の際、現在地へ移され寺町を形成しており、本興寺は十六の塔頭が移転後は八つに減少している。
 この寺には国重要文化財指定の建物、物品が豊富にあり、方丈、開山堂、三光堂いずれも室町、桃山時代の建築物です。
 住職のお話からは度々の失火、戦火、天災に見舞われながら、維持保存に努めた苦労が推し量られます。
 圧巻は方丈の襖絵で、昭和58年の虫干しの時、昭和4年の新聞紙で巻かれている62枚の絵が発見されました。この中には「誰袖屏風」とか上段の間、松の間の初期狩野派の曽我紹興の描いたものもあり、59年に一部は模写の大家による復元修復の後、公開されています。鶴の間鳳凰の間は高平春卜、御講の間は鵬運斉高典常筆と何れも時間をかけてじっくりと見たいものばかりです。
廊下伝いに行ける開山堂には重要文化財に指定されている開基日隆上人坐像があります。
 百八十年前の火災のとき、その上人像が汗をかいていたという話は昭和55年の火災のとき実見したが、現代風に論理的解釈ができるとか、昭和36年解体修理のとき開山堂の天井の銀紙をめくって現れたという竜の絵などなど、住職の貴重な裏話は聞き洩らすには勿体無いものばかりです。
石組の枯山水の庭は小堀遠州作と伝えられ、どこをみてもこの寺の由緒を偲ばせるものでした。
次の訪問先は尼新博物館です。ここは尼崎信用金庫が創業80周年記念事業の一環として、平成13年に開設したもので、地域の文化向上を目的に建てられたものです。洒落た建物でコインミュージアムや丁度開催中の世界中から集められた古今の貯金箱の展示などは、信用金庫ならではの企画ですが、桜井家ゆかりの品々も尼崎の近世を物語っています。
 まず市の地域資料研究員の辻川さんが古代尼崎の地形から近世にいたる歴史の概略説明をされました。
 江戸幕府は大坂防衛のため、高槻、岸和田、尼崎藩を衛星藩とし、夫々に譜代大名を配しました。尼崎城は天下普請で築城奉行も幕府より派遣され、地方重要拠点にのみ許される四層の天守閣を持ち、三万一千坪の近世の本格的平城でした。
縮尺された模型によってその全容がわかります。しかし、明治維新の廃城令で交通の便のよさが仇となり、早々に破壊され公共施設が建てられ、43号線が城の南側を走っています。
次は法園寺。ここには佐々成政の墓があることで有名です。梅村会長が厳冬の「ざら峠」越えなどのエピソードを交え戦国模様を語られます。
 佐々成政は肥後での失政を秀吉に咎められ、大坂へ召還される途中この地に止められた。後に切腹しますが、門を入って左側にある墓は江戸時代に作られた複製で、本物は本堂におかれています。
 隣接している大覚寺は推古8年聖徳太子百済の日羅上人に命じて長洲の浦に造らせたと伝えられる尼崎最古の寺で、この寺に残る「大覚寺文書」は貴重なものです。
 最後は貴布弥神社です。
 尼崎城主の祈願所として存続したため尼崎の66の神社のなかでは別格に扱われ、戦災によって殆どを焼失したが、昭和25年には最も早く復興しています。
 京都の貴船神社と同神の水の神様で、雨乞い祈祷(?)が効を奏した話や死者も出る8月のだんじり祭りの話、宮司の夢は渡御の儀式のために43号線を一時通行止にすることだそうで、ユーモアを交えてのガイドは最後の訪問地の疲労を忘れさせます。
 終了は予定通りの4時20分。忙しい探訪でしたが、もう一度行きたい町です。 (阪本)