2005年2月例会報告

知られざる越水城 講師 立田英雄 会員
http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050123
 今日の講演テーマは氏が住んでいらっしゃる西宮市にあった越水城です。この地に移られた頃は西宮市には城に因んだ町名があり、大社小学校校門に越水城址の碑がある程度の認識でした。しかし、いざ調べようとした時、越水城については知る人も出版物も殆どなく、結局、西宮市史、瓦林村誌、大社村誌三種の資料の中の僅かな記述に拠るしかなく、氏は「知られざる」は「私の知らなかった」であり、「語る」でなく「騙る」だと謙遜されますが、私(阪本)にとっては未知との遭遇であり、興味尽きない一刻でした。
 ざっと説明のあと氏自身の作成された音楽入りのスライドショウによって、越水城をめぐる中世の攻防の歴史と現代が映された。
場面に応じクラシック、演歌、ニューミュジックが流れ、視覚を通して,「珍説 知られざる越水城」は皆さんを越水城の世界に引き入れ、準備完了です。
 この地方は瓦林氏の支配下にあり、先ず瓦林城が築かれました。瓦林氏は三河の在で足利氏、細川氏とともに移ってきて居ついた一族です。(始めは河原林であったらしい)
林城の初見は一三三六年で、この城は赤松氏の武将喜志五郎四郎が守っていたとの記録がある。
 一三六一年、瓦林弾正左衛門が氏神として日野神社を創建。現存しているこの神社の地に瓦林城があったらしい。
 庄下川の河口近くにあった大覚寺は、もとは律宗で社会活動の拠点となっていた事から盲目者に音曲を教えていたと考えられ,「平家物語」の最後の完成者といわれる琵琶法師覚一はこの寺で一三七一年に亡くなりました。
 中世の武庫川の流れは現在のものとは相当異なっており、頻繁に氾濫していました。
 現在のような堤が完成されたのは一六○○年の少し前で片桐且元の手になるものです。
 従って一三○○年代にはこの地を開墾し、治水、興産に携わる集団があったに違いないと思われ、これを纏め統率したのが足利について西下してきた瓦林氏で、その際には激しい攻防戦があったと考えられる。
 覚一が「平家物語」を書くにあたり、その戦いの影響を受けていることは容易に想像できます。
 以後の瓦林関連記事は、足利義持が瓦林氏の遺跡(?)を等持院に寄進した記事まで五十年間途絶え、それから百間年音沙汰なしで、一五一一年に瓦林正頼が芦屋に鷹尾城を築いた記事が現れます。前後合わせると百五十年の空白があるが、瓦林氏は存続していた。
 鷹尾城築城のとき灘五郷と抗争となり、赤松氏が灘方に味方したため、瓦林方は一時的にせよ伊丹へ逃げるほどの厳しい戦いでした。これを参考にして越水城は築かれた。
 天守閣はデータから考えるとあったかもしれないし、安土城天守はこれを参考にしたかも、と想像できます。しかし、この城も数年後には細川隆国、澄元らに攻められ、城主瓦林正頼の切腹で落城、その時失われた。
戦国時代に入り、城主は三好三人衆の篠原長房、三好長慶和田惟政などと変わりますが、瓦林一族の一陽来福の時期もあり、宣教師ルイス・フロイスが越水城を訪れて、城主を通じて京都在住許可の協力依頼をしているのは、単なる出城でなく、重要な政治的存在となっていたとも考えられる。
 荒木村重の家老であった瓦林越後守をもってこの一族は亡んだ。ということになっているのですが、不思議なことに江戸時代の日野神社再建の願主に瓦林の名が認められる。
 しかし、フロイス訪問の頃から越水城の記述は西宮市史、瓦林村誌、大社村誌から消え、江戸時代以降は酒に関する資料しか残されていない。
 ところが昭和十年に旧陸軍参謀本部によって摂津国越水城図が作成されている、にも拘らず、昭和十一年発行の大社村誌には村出身の出征軍人の記録は克明に載せているのに、越水城に関しては越水城の南方に中村城があったという記事のみです。
 この頃は日本の合戦分析が進められていた頃で、陸軍の作成図には越水城を載せているのに、大社村誌には陸軍調査部の来訪記事もない。きっと軍事的に重要な何かが隠されていたのではないかと考えられる。
 現在、日野神社に瓦林城址の碑が建てられているが、これは平成になって建てられたもので、どういう因縁のある方なのでしょう。
講演後、研究テーマが重なっているらしき中西会員から面白い話を披露され、またかつては西宮の住人であった方からも情報の提供がありました。次なる立田氏の講演を期待します。              (阪本)