(二)

http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050131(からの続き)
                       八瀬 久 
(3)系図造り
 現在各家に伝わっている系図の多くは、天正年間(一六○○年頃)から元禄時代(一七○○年頃)にかけて作られたと言う。少し回り道になるが、系図造りが発生した時代背景について書くことにしたい。
 戦国時代、志を抱いた名もない人々が、時代に便乗して合戦に参加した結果、功なり名遂げて急遽大名になったり、上級士分になった。その後、戦乱が収まり平和の世となって行ったが、幕府の士農工商と言う身分確立政策と相俟って、生活が安定すると家柄や家系を重視する時代となって行く。
 「当家にも由緒ある系統の系図が欲しいなぁ」
 時代変革と言う大動乱の中で立身出世を遂げた人々は、相応しい家系を願った結果生まれたのが系図屋という職業である。
 「宜しゅうございます。早速とり懸かりましょう」
 系図屋は相手の希望に沿い得る系図を見繕ろうと、途中挿入の手法で次々と系図を捏造していったのである。
 系図には縦系図と横系図がある。縦系図は一目瞭然で見善いし、途中で細工ができないので理想ではあるが、系統が増える毎に紙数が増加して行くので、古い家系の場合には大変膨大なものになる。其処へ行くと横系図は善く考えられている。紙の余白箇所に該当する所から棒線で引き回すのである。従ってコンパクトになって経済的に出来ている。欠点は何処でも追加挿入が可能と言うことであろう。
 「このところに架空の人を入れて、お宅の系図を繋ぎましょうか」
 勿論由緒正しい系図も随分多いことだろうが、こうして、この時代に造られた系図もまた多いことだろう。
 《寛政重修諸家譜》を操ると、×××天皇十三代の後胤○○○を始祖として、と言うような実に怪しげなものもあって、天正の始め頃の系図造り技術は可成り荒っぽいことが判る。しかし元禄時代迄には百年、随分技術も向上して精巧な系図が出来たことだろう。元禄時代に出来た系図には、その年代に合わせた古文書や書籍迄捏造した上で造られた、大掛かりな系図迄あったとか。
 造った当時の系図には余り価値は無いが、時代を経ることで始めて価値が生ずるのである。譬え途中で何かがあったとしても、現在に到っては一つの事実として貴重である。

(4)赤松系図の謎
 話を元の赤松系図へ戻すことにするが、赤松系図の多くが矢張り天正~元禄時代に造られていると言う。そんな中で最も権威があると言う赤松大系図赤穂郡上郡町苔縄在法雲寺蔵)の元を糺すと、遠く文亀二年(一五○二)に宝林寺宝所庵(上郡町河野原)で催された(後)赤松氏初代惣領家赤松政則の七回忌で導師を務めた景徐周麟が、拈香の語に「謹んで、赤松氏の家牒を按ずるに、昔、村上天皇王子あり、具平親王と言う。時に六条宮と号し、後の中務卿と称す。才芸世に絶す。一日、清涼殿に於て文会あり、親王文を作る。是によりて此の会を名付けて中殿会と言う。親王の嗣、久我大臣たり。大臣の華冑、分れて武家と為る。播磨権守家範なる者有り、初めて赤松と号す。家範四世の孫を則村と言う。(以下略)」
 このように周麟の語録 《翰林葫蘆集=巻十四》 に書かれているが、赤松惣領家の法要と言う公式の場で語られたことから考えると、当時赤松氏で代々伝承して来た家系であったのだろう。一般的に赤松系図では遠く季房迄逆上ったり、則景を始祖としたものが多いが、家範を始祖とした所に信憑性が感じられる。
 私は自家系調査からの関連で赤松氏に拘わったが、以前から多くの家の系図を見聞しているから、系図に於ける長所や短所は心得ているつもりだ。従って赤松系図についても、「果たして本当だろうか、何処かで細工の後は・・・。天正から元禄に起こった系図ブームよりも少し早く、赤松氏でも同じ次元のことが行われのでは無いだろうか?」
 と注意深く吟味したものだ。私は赤松氏を語る時、こんな風によく話す。
 「家範から三代は何ら治蹟が伝わっていない、目立たぬ極く平凡な家系だったのだろうな」
 則村に至り急成長した揚げ句に、到頭三国の太守に駆け上がった。この後で発生したことは・・。・矢張り戦国大名と同じ悩みであったことだろう。
 建武中興後の論功行賞に際する断腸の想いだった。
 「あぁ・・・家柄が欲しい。由緒ある家系だったら・・・」
 足利市や新田氏は国司になった。楠木だって国司を賜っている。私だけが国司の下の守護職になった。勿論兵力差もあったことだろう、しかし家格の違いも影響しただろうと思う。則村が悩んだ末に考え着いた所が、赤松系図造りではなかったのだろうか。
 私は周麟の語録に出て来る〃播磨権守家範なる者有り、始めて赤松と号す〃に吸い付けられた。何故かこの=始めて=にインパクトがあるように思われてならなかった。
「家範のところで何かあったのでは……」
 その辺りを注意深く見ていると、何か不自然な感じで、家範の名が妙に浮き上がって見えて来たのである。
 則景には四人の子がある。先に掲げているから参照して欲しいが、他の兄弟には太郎、次郎、八郎と付いている上に、全部景という字が親から与えられている。末子の家範だけには景の字が無く、何番目かの郎も無い。そして如何にも厳しく佐衛門尉・従四位下・播磨権守・兵部権少輔と、ご丁寧にも母北条義時女とまで書かれているのである。
 この他にも具平親王の七代の孫季房卿が、播磨国司として加古川辺にあった時、天から降って来た白布の夢を見て、夢に見た通りの白旗山に居を構えて赤松氏の祖となったと言う伝説がある。これもその当時に作られたものだろうが、このように高貴な血統や執権と言う家格に結び付けてまでも、自家の家系を権威づけた凄まじいばかりの執念の裏には、それだけ平凡であったと言う則村の苦悩が感じられてならない。

http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050119 (へ続く)