(四十三)忠 度

                           阪本 信子
 平家都落ちの時のエピソードの中で、作者が特に力をいれて書いているのは、作者お好みの文化人のミヤコ落ちです。
 薩摩守忠度歌人としても知られていました。
 彼は都を出る時、歌の師である藤原俊成を訪れ、丁度勅命によって撰進中の勅撰集に一首なりとも入れて頂きたいと,一巻の歌集を托しました。この中から俊成は千載和歌集に「よみ人知らず」として一首入れました。

  さざなみや志賀の都は荒れにしを
             昔ながらの山桜かな

 この時、平家は逆賊となっていた為,憚って「よみ人知らず」としたのです。
 この勅撰集が完成したとき、平家は既に壇ノ浦に沈み、勝利者義経も奥州に追われる身の上でした。
 平家物語では俊成は忠度が来たと聞くや門を開けて対面し、才能ある愛弟子の最後の願いをしかと胸に引き受け、去って行く忠度の後姿を見送り「名残惜しう覚えて、涙をおさえて入り給う」と万感こもごもの別れが書かれています。
しかし、実際には貴族たちは都落ちする武士たちの狼藉を警戒して、また拉致されるという噂も飛びかっていたため、門はしっかり閉ざし,会う事をおそれたのが実状で、忠度が何度門を叩いても俊成は門を開けず、扉ごしにわななき震える声で応対しただけで、姿を見せず、忠度は仕方なく歌の巻物を門より内に投げ入れたというのが真相で、美しい師弟の別れは平家作者の願望する筋立てになっています。
しかし、俊成の立場はよく考えてみれば出世昇進が第一の朝廷の役人なのです。
 落ち目になった平家とこれ以上関わる事の不利を思えば,冷たい応対は仕方のないことかも知れませんが、忠度としてはこの掌を返すような仕打ちをどう思ったことでしょう。師と仰いだ人の頼りなさ、情の薄さ,時勢に流される品格の貧しさを恨めしく思ったかもしれませんが、人の世というものはそんなものでしょう。
 平家物語では「一首なりともご恩を蒙って、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御まもりでこそ候はんずれ」(一首なりとも勅撰集に入れて頂ければ草葉の陰でうれしく思い、遠いあの世から,貴方をお守りいたしましよう)「浮世に思いおくこと候はず」(もうこの世に何の未練もありません)と美文で人々の感動を誘っています。
 忠度は勅撰集が出る頃には、既に自分はこの世にいないことを確信していたのです。
平家一門の子弟は貴族と同じように管弦,書、和歌などを幼いころより学び、歌の上手、名人といわれた人は相当いました。もし逆賊にならなかったら、多くの歌が勅撰集におさめられていたことでしょう。
 謡曲の忠度では「よみ人知らず」として入れられたことを口惜しく思い、俊成の息子の定家の前に亡霊となって現れ、その妄執を訴えていますが、江戸川柳にはちゃんと、
山桜よみ人しらぬ者はなし
平家物語のおかげでこの歌の作者は忠度であると後世の人達はみな知っていたのです。きっと忠度の霊は安らかに眠っていることでしょう。