(36)窮鼠猫を噛む

                                     阪本信子 会員
 頼りにしていた嫡子重盛、そして藤原摂関家との絆であった娘盛子に死なれた清盛の悲しみを逆撫でするような後白河法皇の挑発に、清盛は終にクーデター決行に至ります。
 法皇は重盛知行地越前国及び故基実の室である娘盛子の管理下にあった摂関領を収奪、そして権中納言の席を巡り、清盛の娘婿で20歳の藤原基通を差し置き、僅か8歳の基房の嫡子師家を就任させた。
当時、貴族社会でもこの事は後白河の過怠と非難し、大事に至らねば良いがと皆心配していたのです。
 重盛の知行国主職はその子維盛が相続しているのを法皇が無視して側近を任命しており、これ即ち平家後継者の否定を意味し、平家の面目を失わせるものでした。
 また摂関領の収奪、師家の権中納言補任については所領云々というよりも、摂関家の主流は清盛が支援している基実系より弟の基房系に移り、摂関家総領の家督は基房の子師家である事を天下に知らしめるという政治的意義があり、これは今までの平家の藤原氏対策を無に帰し、平家の権力地盤をゆるがせるものでした。
 勿論8歳の中納言誕生に至っては、言うも愚かなことで、法皇の平家いじめは見え見えです。
 この危機を一気に脱しようとしたのが治承の政変でした。
 清盛は関白基房、師家父子を解官、配流したのをはじめ三十九人に及ぶ後白河シンパの更迭、解官、追放、罷免などの大胆な人事異動を行い、続いて法皇を鳥羽離宮へ幽閉するという、後世清盛の悪行の最たるものといわれる政変を決行しました。 
 まさに疾風迅雷の処置で、1週間足らずの処断でした。
これを清盛の緊急避難措置、過剰防衛とみるか権力簒奪とみるか、それは人それぞれの歴史観によるものでしょう。
 清盛贔屓の私としては、窮鼠が猫を噛んだ事件だと思います。(つづく)