(2005/03/06)3月例会報告 徳川道とその背景

                                講師 青山与治郎 会員
 氏はシルバーカレッヂの卒業記念として,男女七人で通称「徳川道」(正式には西国往還付替道という)についてのレポートを纏められ、この度それを発表の運びとなりました。
 当初は東爪佐七さんとお二人で発表の予定でしたが、急遽東爪さんがご都合により休まれましたので、青山氏一人でやられることになりました。従って、準備された四十分の講演内容を一時間三十分に何とか引き伸ばさねばならなくなり、大変なご苦労でした。
 心ならずも説明不足の所もあり、渡された資料により、筆者が補足して報告いたします。
 氏がいいたいのは、徳川道そのものではなく、徳川道を研究するプロセス中に見えた先祖の精神だと推察いたします。
 神戸事件というのは三宮神社前の西国街道備前藩兵が行進中、その行列をすり抜けたイギリス人を藩士が槍で刺したというものです。もし、この時徳川道を通っていたら、こんなことにはならなかったでしょう。
 徳川道はこの数日前に完成したばかりで、備前藩はこのことを知らなかったというのですが、この徳川道はこのとき備前藩士が麻耶山中に逃げ込むのに役に立ったのみで、多くの労力と資材を費やしたにしては無駄な産物となっています。
 徳川道が作られた当時の日本は世界列強の中では脆弱なもので、神戸事件は滝善三郎の犠牲で決着しました。
 氏は徳川道研究資料不足に悩む時、ドイツ系イギリス人の在日外交官アーネスト・サトウの日記に辿りつきました。これは昭和四十年代になって公開されています。
 十九歳の彼が来日して六日後に生麦事件が発生しています。彼はこの後、日本の対外的危機の解決に尽力し、本国からは「サー」の称号を、日本政府からは勲一等旭日賞を授与されています。サトウの来日目標の主なるものは貿易でしたが、多くの日本要人と知己を得て、彼らの裏話も披露しており、日本人以上に日本人的精神の持ち主であったと思われます。
 幕府は生麦事件の処理に莫大な賠償金を支払い、その六年後に神戸開港となりました。これに伴い外国人の居留地を定める必要が生じてきます。しかし、西国街道は道幅も狭く、西国大名の参勤交代道路で、居留地も近いため外国人との間に生麦事件のようなトラブルの起こる可能性もあり、迂回して西は大蔵谷から約三十二キロメートルの通称徳川道を約一ケ月かけて完成しました。資料の中には工事監督役人の連日に渉る贅沢な献立が紹介してあり、殆ど使用されないままに廃道となる工事に徴発された農民の苦しみとは無関係なお役所仕事との感慨を深くしました。
 青山氏の提供された資料の中に、大正八年発行の雑誌「INAKA」に掲載された塚本永尭氏の英文の記事がありました。両氏の翻訳によると、徳川道工事の現場監督の話を書き留めたもので、全く使用目的を果たさなかったこの道に対し、幕府は二万両にも上る大金を支払っているのには驚かされます。
 その後も諸々の歴史的雑談が続きましたが、歴史はただ過去の事跡を書くのみでなく、現代に生かすのが歴史の使命ではないかとのお考えで、その視点から徳川道を調べた結果を今日は発表された次第です。
 現在、徳川道はハイキングコースの一部分に組み込まれていますが、終了後、徳川道を歩く企画はどうかとの参加者からの質問もあり、新企画への前向きな姿勢を表示して、講演は終わりました。お疲れ様でした。(阪本)