境界争いの歴史的考察(2)

                                中西輝夫 会員
池田家 その2
 天正十年六月二日(一五九二)本能寺の変で主人信長が倒れ、信輝は信長の菩提を弔うために剃髪し勝入と名乗ります。尼崎の池田親子は丹羽長秀とともに秀吉に味方し、六月十三日山崎の合戦には右翼として明智光秀と戦い、秀吉の天下取りに協力しました。
 秀吉が行った大徳寺における信長の葬儀で輝政(古新といった)は御次丸とともに信長の棺の前後を担いでいます。
 秀吉は天正十一年(一五八三)四月、賤ケ岳の合戦で柴田勝家を滅ぼし、大阪を直轄地とし、安土に勝る天下の城、大阪城築城のため池田親子を美濃池尻、大垣、稲葉城(岐阜城)十万石に移しました。
 秀吉は本庄、蘆屋郷、山路庄に大阪築城に携わる人足や石工などが農民に迷惑をかけないよう、三カ条の厳しい禁制を出しています。
 相当強引に石材や木材を集めたようで、古墳を壊したり寺社の森を伐りだし裸にしています。その為か、武庫川以西の河川の氾濫もこの時期から度々起るようになっています。
 天正十二年四月(一五九四)信長の跡目について次男信雄は自分の処遇に不満を持ち、徳川家康(四十三歳)と手を結びました。このとき家康は北条氏政の嫡男氏直二十二歳と次女督姫十九歳の縁組によって、後から責められないよう手はずをすませています。しかし、敵にまわるとは思っていなかった信長と乳兄弟の信輝が秀吉方に味方し、犬山城を攻略、信輝の娘婿森武蔵守長可は小牧近くまで出陣したところを、家康軍に追払われています。この長可の失敗を取り戻すため信輝は強引に家康の本拠地三河へ討ち入ることを秀吉に願い出ました。一度は拒否されますが三好秀次を大将に堀秀政を軍監、池田親子を先鋒に、大軍をもって長久手に向かったが、戦いは敗北に終わりました。輝政の父池田信輝は永井伝八郎に討たれ、兄の之助は安藤彦四郎直次に首を取られ、妹婿の武蔵守長可も鉄砲に撃たれてあえなく討死。輝政は馬の口とり、番大膳(後利隆氏の家老)に助けられ命拾いをしました。この時祖母の養徳院(七十歳)が家の筋道をたて、兄之助の子、由之が幼いため、秀吉により輝政が家督相続を許され、大垣城から岐阜城にはいり、十万石の城主となり、中川清秀の女との間に天正十二年九月七日(一五八六)利隆が生まれ、妾腹には政虎をもうけます。利隆の母は病弱だったのか実家に帰り若死にしています。(輝政は同十三年従五位下、十五年羽柴姓を、十六年には従四位下となり豊臣姓をゆるされている)
 輝政は天正十八年七月(一五九○)小田原攻めの後三河吉田城へうつり十五万二千石をあてがわれ、在京の扶持として伊勢小栗栖の荘を貰っています。
 天正十四年(一五八六)家康は秀吉の姉旭姫と縁組、大政所(秀吉の母)を人質として送られ、家康もやむなく上京、秀吉と臣下の対面をいたします。その旭姫は天正十八年一月十四日聚楽第において四十八歳で病死しています。
 天正十八年(一五九○)関東の北条攻めが終わりを告げ、氏政は切腹、氏直は徳川の婿であったため、高野山へ追放されその妻督姫(家康女)は離縁し、実家に戻りました。
 東北の伊達政宗も、この時秀吉に臣下の礼をとり服従しています。
 家康は秀吉から関東二百六十万石のうち北条氏の二百四十万石を知行され江戸に移り、直轄地に旗本、御家人など家臣団をうまく配置し国の守りをかため、大土木事業を起し、用水路をつくり、水田の開発を進め、商人や職人らを移住させるなど、町づくりにも積極的に取り組み商工業の仕組みを図り、上水道の敷設など城下町建設に力をそそぎました。
 文禄三年(一五九四)輝政は秀吉の媒酌により、北条氏から帰っていた督姫(家康女、三十歳)を継室に迎え、忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興など五男四女(家康の外孫)をもうけ、徳川家と池田家は深い姻戚関係によってむすばれます。
 慶長三年八月十八日(一五九八)秀吉は秀頼のことを心配しながら大阪城で六十三歳で亡くなり、この時期から家康の縁組による閨閥工作が活発になります。
 信長は天文三年五月二十七日(一五三四)生まれ、秀吉は天文六年生まれで永禄元年(一五五)十八歳の時信長に仕えます。家康は天文十一年十二月二十六日生まれで(種子島に鉄砲が伝わった頃)、六歳の時織田方に人質にとられ、二年後今川と人質交換され十六年間今川方で過ごし、桶狭間の合戦で始めて独立、信長と同盟を結びます。
 慶長五年(一六○○)関が原の合戦で輝政は関東軍として毛利、吉川、安国寺軍と対峙、その恩賞として播州姫路城五十二万石を貰い、もとの池田姓にもどります。輝政の子忠継は備前岡山二十八万石、その弟忠雄は淡路六万石を、督姫は備後で化粧料四万石と、親子あわせて九十万石余の所領となり、西国将軍といわれ、姫路に五階の天守閣など城郭を整備し、西国諸大名に備えました。関が原合戦で西軍に与した八十七大名が改易、取り潰しとなり、五大名が減封、六百六十万石が東軍に分配され、徳川家では三河以来の多くの武将が大名となりました。大阪の秀頼は摂津和泉六十二万石の大名となり、ひとりでは家康に対抗できなくなりました。 
 慶長八年二月十二日(一六○三)家康は征夷大将軍に任命され、二年後秀忠に将軍職を譲って駿河へ下り大御所となり、実権を握り駿府城江戸城の築城と町づくりを始めます。
 家康は街道整備にも力をいれ、関が原での大名配置換えに伴う領地の確認の為、慶長十年九月西尾吉次、津田秀政を奉行として、国絵図を画かせることにし、摂津は片桐且元、播磨は輝政に命じて、それぞれの国の正確な絵図を作らせました。今も残っています。
(つづく)