源氏は人材不足

                             阪本生長 会員
 今年の大河ドラマに因んだ話題です。
 「平家物語」を読んでみると、それがいかに敗者の美学を綴った文学であるにせよ、勝者である源氏の登場人物が少ないことに気付きます。
 確かに宇治川の先陣争いや那須与一のような個人的武勇を披露する場面はあることはあるのですが、大局的記述となると極めて限定された名前しか出てきません。
 これは勝者である源氏には人材が不足していたことを意味しているのではないでしょうか。
 中央で政局を担当する平家と、一度は壊滅状態にあった源氏とでは、その氏族としての総合力において同列に論ずることができないのは当然です。
 旗揚げ直後の頼朝が後白河院に対し、源平両氏による東西分担を提案したのも、実力は格段に劣りながら、同等の立場を暗に求めてのことで、それが実現できたならば大成功で、頼朝の提案の目的はどこにあるのか納得できます。
 逆の立場に立てば、いかに凡庸な宗盛とて到底受け入れることはできない提案です。
 平家の棟梁宗盛は些か頼りない存在ですが、その下には知盛、教盛、重衡、忠度等の知将、勇将がいるのに対し、源氏を見ると頼朝は傑物ですが同族の義仲、行家とは敵対関係にある状況です。
 野球に例えれば平家軍は一番バッターから九番まで、実力者が揃っていて、先発投手もローテーションメンバーが充実しているのに対し、源氏軍はやっとかき集めたメンバーで戦いました。
 それでも源氏が勝ったのは、たった一人の先発投手が連続登板してパーフェクトに勝利をもたらしたからです。
 はっきり言って、平家は源氏という氏族に負けたのではなく、義経という個人に敗れたのです。
 先述の東西分担の申し入れも、結果からみると頼朝の余裕ととられがちですが、実は平家の実力優位を十分知った上でのギリギリの政治交渉だったと考えられます。
 実戦経験の無い義経が天才的軍事能力の保持者であるとはだれも見抜けなかった筈です。
 源氏は人材が不足していたからこそ、頼朝は海のものとも山のものともつかない弟を起用せざるを得なかったのです。
 また鎌倉武士団にはそれと並び立つ人間がいなかったのは明らかで、それ故に格としては最下層の北条氏がその謀略によって支配者になることが出来たのです。
 話を転じて源平の攻防についてはこういう見方もされています。
 源氏は弱肉強食、非情な武家の掟に倣い、身内縁者といえども容赦しなかった故に勝利者となった。片や武を捨て朝廷に入り貴族化した平氏であった故に滅亡したと。
 また、勝利者であった源氏は頼朝の死後、その遺児を後見する一族の一人もなく途絶え、対する平氏一門は揃って西海に身を投じた。個人の武勇を誇る源氏と一族の結束を重んずる平家、こういう見方もしていませんか。
いずれも誤解です。
 さかのぼって考えれば、平将門の乱の発端は平氏同族内の勢力争いです。
 この時に、後のような一族団結があれば、後年の頼朝を待たずして、平氏によって関東に強大な王国が築かれたかもしれず、京都の朝廷に取って替わっていたかもしれません。
 源平両氏の滅亡様式の差は、偏にその棟梁の力量の差、つまり頼朝と清盛の差です。
 源氏が内輪もめの末に先細りして、途絶えたのは頼朝の狭量の故で、平氏都落ち以後、凋落に向いながらも内部分裂を惹き起さなかったのは、清盛の度量の広さの故でしょう。
 頼朝が義仲や義経を許す器であれば、源氏の天下は続いたでしょう。
 清盛の猜疑心がもう少し深ければ、彼の死後、武将たちは凡主宗盛に従わず、清盛の遺命に背いて知盛を奉じたかもしれないし、重衡などは分派行動をとっていたかもしれません。
 何れにしても、一門一族悉く壇ノ浦に果てるといった事にはならなかったでしょう。
 尤も清盛が狭量なら、捕らえた源氏の息子達を生かしておかなかったでしょうし、従って頼朝挙兵はなかったでしょう。
 平氏滅亡は偏に清盛の大度量のせいであり、源氏の途絶は頼朝の狭量にあった、と考えるならば、狭量がよいのか、広い度量が是か非か、所詮何れも亡ぶ運命にありますが、歴史は皮肉な産物かもしれません。